アカツキに散る空花
そこには鬼達の痕跡すら無く――ただ青い空だけが、広がっていた。
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被撃墜一二六機。損傷を負った機を数えれば被害は四百機以上にのぼった。
しかしそれでも、何百体という空鬼の群れを相手にこれだけの被害で済んだのは二人の英傑……とりわけ、ムラクモの手柄が大きかったであろう。
橙と黄の《アマテラス》が上空から基地滑走路へ降下を始めると、先に降り立っていた操縦士達の多くが敬礼で迎えた。
人が死に、それ以上が救われた後で、小さな英傑を侮ろうとする者はもう一人も居なかった。
その中の一人となってホヒも、呆れるように呟く。
「……まったく。これほどの力を持ちながら、サクラ隊のために自ら道化を演じていたのか。
やはりどうしようもなく頑固なヤツだお前は。ハバリ様と方向は違うがな――」
その声色はどこか嬉しそうで。
目を細めたホヒの横顔は、懐かしさに浸るような郷愁が漂っていた。
「ムラクモ……様」
格納庫から出てきたムラクモの背中へ、ためらいがちなウズメの声が掛かった。
無言で振り返った彼は、彼女の顔を見ると少し気まずそうな表情をする。そして目を伏せ……深く頭を下げた。
「ごめんね、ウズメ」
「……えっ?」
「今まで辛い思いさせて……。たくさん迷惑もかけただろうし。
でもみんなに強くなってもらうのに、こんな方法しか僕は思い付けなかったんだ」
そう言って申し訳無さそうに頭を下げる英傑に、ウズメはうろたえた。
――謝るべきは、自分の方なのに。
英傑には無条件で頼っても良いなんて。そんな考えが過ちだとムラクモは気付かせてくれたのだ。
自分達は英傑を信頼しても、依存してはいけない。
軍人である以上、戦いを放棄する事は許されないように。
でなければ例えば、今日のような戦いで……サクラ隊の四人は全員で生還ができなかっただろう。
ムラクモは暁中の人間から非難され、嘲笑されようと、サクラ隊に今まで戦闘経験を積ませ続けたのだ。
そうして自らを犠牲にしてサクラ隊を育て上げてなお謝る彼に戸惑い、思わず涙ぐみながらもウズメはとっさに言葉が出なかった。
その肩へ、ふいに大きな手が置かれる。
「今まで生意気な態度を取っていて……、本当に申し訳ありませんでしたムラクモ様」
泣きそうになったウズメの後ろから、ホオリが歩み出る。筋肉質で厳めしい体を恐縮そうに縮めながら、ためらいがちに口にした。
さらにその隣にもアスハやミサキが立ち、ムラクモと目が合うと申し訳無さそうな表情をしている。
しかしミサキはふいにムラクモを見ると、上目遣いに口を開く。
「で、でもでも、それならそうと言ってくれれば……。私やウズ姉ぇだって、みんなだって、絶対冷たくは当たらなかったんだよ!?」
珍しく新語も使わずに言い切ったミサキの言葉。それは四人も同じ思いだった。
ちゃんと口で言ってくれれば非難する事も無く、ウズメが激しく罵倒する事も無かっただろう。
ムラクモだって、あんな惨めな思いをせずには済んだはずなのだ。
「ダメだよ……それは」
だがムラクモは静かに首を横に振った。
どうして、と怪訝そうにする四人へ、彼はさらに続ける。
「だってね。後ろで僕が守ってるって分かったら、どこかでやっぱり気が緩んで……みんなは全力で戦えなくなるから」
「……っ」
「だから誰にも言えなかった。そういう噂が立つだけでも、気付いちゃうかもしれないしね」
「そ、そんな……」
ウズメが絶句して言葉を失う。他の三人も同様だった。
確かに、ムラクモは毎回自分達の危機にだけ助けに入っていた。思い返してみればムラクモが気まぐれに戦闘に参加する時は、決まってそういう時である。だからサクラ隊は一機の被撃墜者も出さずにここまで来れた。それは奇跡でも何でもなかったのだ。
それを思い出すだけでも薄々でもムラクモの真意に気付けそうなモノだ。
だがそれでも四人が全く気付かなかったのは、……ムラクモを軽んじていたせいだろう。
いや、サクラ隊の四人だけでは無い。航空団の全て、いや、暁中の全ての人間がムラクモという英傑を軽んじていた。必死に誰も死なせないように努力する彼を、「使えない奴」と。
ウズメは目を見張りながら、わなわなと唇を震わせる。
「だ、だって……あんた、私にあれだけ言われて……泣きかけてたじゃない。
それなのに、そんなに辛い思いまでして――!
言ってくれればよかったのにっ! だって言ってくれたって、きっと私達が必死に戦うのは変わらないし……!」
「えへへ……本当は僕も、何回かそう考えたんだ。もう言ってしまおうって。
でもそれじゃ……ダメだと思う。やっぱりダメなんだ」
ムラクモは首を横に振って、柔らかな笑みを浮かべた。少し照れ臭そうに。
ムラクモの言葉には、頑なまでに貫かれた想いがこもっていた。
四人はようやく悟る。彼は確かに暁の英傑だったのだと。
ふいにウズメは顔を伏せる。
強く歪められたその顔には、涙が一筋伝っていた。
「……ムラクモ。今まで本当に……ごめん。……ごめんなさい」
「僕の方こそ。ウズメ……これから、よろしくね」
ウズメの眼前へ、ムラクモは右手を差し出す。
何の迷いも――無い真っ直ぐな手を。
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……――差し出された右手に背を向けて、イツは思わず駆け出していた。
「あ、イツ様ッ!? ど、どうしたの!? ねぇ、――イツ!!」
突然現れた子供、ムラクモという少年が自分の名を呼ぶ。全力疾走で暴れていた胸が鷲掴みにされたように苦しくなり、意味も無く頭に血が上る。
学習院を常に孤独に過ごしてきた彼女にとって、差し出された手は怖かった。まだ何も手に入れていない内から、失う事を考えてしまった。
結果的に、イツは逃げ出してしまった。
友達が欲しい、と心の底では切望しながら。
「……イツー! おーい……!!」
遠くから、彼の声が聞こえる。
どうやら自分を見失ったようだ。
イツはようやく走る速度を緩めると、木陰に隠れて息を整える。心臓が早鐘を打って息が苦しい。
そうして必死に気配を消していると彼の声が次第に遠ざかっていくのを感じた。
しかし逃げ出しておきながら、イツは心の底から寂しさを覚える。
こちらへ来て欲しい。
自分を見つけて欲しい。
「……逃げちゃった」
うずくまったまま、呟く。
体育座りになったままイツは膝に頭を押し付けると、じわりと着物に涙が染み込んでいく。
あれほど望んでいたものを、自分は手放してしまったのだ。
自分を呼ぶ声は、もう聞こえなくなっていた。
「…………ムラ、クモ」
ポツリと、搾り出すように呼ぶ。
先ほど差し出された右手を頭の中で思い出した。そのまま右手を虚空へ伸ばす。
せめて想像でだけでも、その手が重なるように。
ずっと切望していた願いが……せめて空想の中だけでも叶うように。
だが――その手は、ふいに本当の温もりに触れた。
驚いてイツが顔を上げる。
その、滲んだ視界に。
「……呼んだ、イツ?」
少年の変わらぬ笑顔があった。
イツの右手に、自分の手を――重ねながら。
目を覚ますと同時、その目に飛び込んできたのは侍女イクコだった。