アカツキに散る空花
――――暁の皇女の声が、静寂を涼やかに突き破った。
……薄闇の中、巫女達が神への祈りを舞う。
その中心の御帳台に皇女の影が映っていた。
皇女が唱える祝詞はか細く振るえ、人々が崇める皇女の声はまだ幼さを残している。
そこから五メートルほど離れた場所で、ムラクモとヒヂニは正座していた。その眼前には木桶がそれぞれ置かれ、二人はそこに腕を浸している。
その無色透明な水は、徐々に色に染まっていくようだった。ムラクモは赤へ、ヒヂニは青へ。やがて浸した腕の先が見えないほどに水は色を変えていた。
ふとヒヂニがチラリと桶を一瞥し、微かに眉をひそめる。ムラクモの桶と見比べ、微かに嘆息した。
直後、御帳台の中で小さな影が動く。
祝詞を唱え終わった皇女が、微かな衣擦れの音を立てながら二人へ向き直っているようだった。その周囲で舞い踊っていた巫女達も神社に一礼し、御帳台の脇へと座る。
皇女の声が静かに響いた。
「……《神守‐参拾六 アマテラス》の操縦士にムラクモ、《神守‐参拾七 ツクヨミ》の操縦士にヒヂニとの神命が下った。よって両名をそれぞれの操縦士に任命する」
「「はいッ」」
大きく返事し、ムラクモとヒヂニは深々と頭を下げた。
――神栄天衣。
それは神々がこの世に顕現していた時代、神の手で作られた空中兵器だとされている。暁が大量に生産した人工天衣などとは違い、神栄天衣は一機ずつが存在するのみだ。
だがその力は並の人工天衣の比では無い。それゆえ神栄天衣の操縦士を決める選定の儀は、暁にとって最も神聖な儀式の一つと位置づけられているのだった。
「では……これにて選定の儀を終える。両名、退室せよ」
皇女が淡々と言い放った声は、幼さを残しながらも深い威厳を感じさせた。
同時、ふいに広間に明かりが差し込む。
外で待機していた巫女達が、全ての襖を一斉に開け放ったのだ。高い場所の天窓も全て開き、一気に夏の蒸し暑い風が吹き込んだ。
それでも、後ろで平伏する高官達や巫女達は誰一人として動かなかった。咳払いをする者すらいない。
その中を、英傑の二人は静かに身を翻す。元来た筵の道は、高燈台の明かりが意味を為さなくなるほどに明るくなっていた。
歩みだそうとした二人のうち、ムラクモがふと足を止める。
チラリと顔だけで背中を振り返り、そのまま御帳台へ何か言いたげに口を動かす。
「……行くぞ、ムラクモ」
「う、うん。そうだね」
だがヒヂニに促され、何も言えないままムラクモは再び背を向ける。
御帳台の中に居る皇女は暁で最高の神力を持つ巫女でもあり、その体には神の血が流れているとされていた。いくら成人を迎えた英傑といえど、軽々しく声を掛けて良い相手ではない。
だが胸を張って堂々と筵を歩くヒヂニに対して、ムラクモは重い石でも肩に乗せたように背を曲げて歩いている。その足取りは重く、表情は硬い。
「……ムラクモ、もっと胸を張れ。俺達は人々の希望を背負う英傑なんだぞ」
「…………」
「おい、聞いてるか?」
「うん……。そうだね」
突然ムラクモは吹っ切れたように背筋をグッと伸ばした。
ヒヂニはやれやれと吐息する。気付けばもう柱の手前、筵の分岐点だ。
ヒヂニがそこで別れようとした時――。
ふいにムラクモが立ち止まった。
「……おい、ムラクモ?」
何してるんだ、とヒヂニが言おうとした時。
既にムラクモは胸いっぱいに息を吸い込み、後ろを振り向いていた。
後ろの御帳台の方へ、思いっきり右手を振りあげて。
「――じゃあまたねッ、イツッ! また会おうッッ!!」
――――広間一杯に、ムラクモの声が響き渡る。
笑顔を浮かべ、大きく振る右手。
選定の儀の退室途中、ムラクモはあろう事か皇女の名前を叫んでいた。
静寂が、広間を支配する。
いや、もちろん元々話し声は一つも無かった。
だがそれでもそこに数百人が集まる以上、人の気配がある。衣擦れ、息遣い、そういった諸々。
だが今、その全てが止まっていた。
並み居る巫女に高官は、何が起こったかも分からずに身体を硬直させている。
その中でムラクモだけが……笑顔で手を振っているのだ。
「僕達はずっと友達だよー! またね、イツっ!」
「……馬鹿っ、いい加減にしろ!」
最初に我に返ったのは、隣に立っていたヒヂニだった。
手を振るムラクモの腕を抑え、強引に振り向かせる。
「行くぞっ、ムラクモ……!」
ヒヂニは苛立たしげに言うと、ムラクモの背中を乱暴に押す。
だが同じ英傑として彼が怒るのも当然だろう。皇女へ、しかもよりにもよって選定の儀においてこんな暴挙に出るなど……暁の歴史の中でも、前代未聞。神聖な儀式と英傑の名を、両方とも地の底へ貶めるも同然の行為だ。
ショックから立ち直り始めた人々は、いまや低いどよめきで囁きあっていた。
「あはは、ごめんごめん。行こう、ヒヂニ」
「……お前……ッ」
一方のムラクモは、軽い調子で頷いた。
ヒヂニはその態度に青筋を浮き立てたが、ここで口論する訳にもいかない。ヒヂニは早々と背を向けて歩き出す。
一方のムラクモは衣服の乱れを直すと、軽い足取りでヒヂニと反対側へ歩いていく。その後ろ姿からは大それた事をした自覚は一つも読み取れない。むしろ、心のつかえが取れて上機嫌にさえ見えた。
唖然とする巫女や高官達の目前を、険悪な表情のヒヂニと笑みを浮かべたムラクモが通り過ぎていく。
騒然となる紫祭殿の大広間。
そんなざわめきを遠くに聞きながら、御帳台の御簾の内側から暁の皇女……日女 稜威(ひるめ いつ)は目を丸くして彼らの背中を見送っていた。
齢十四を数えるこの少女は、その年齢にも見えないぐらいあどけない。
唯一その年齢を示す長い黒髪は、服の前と背中に垂れて絹のように波打ち、畳の上へ放射状に広がっていた。前髪だけは横一直線に切り揃えられ、まるで人形のように端正な顔立ちを露わにしている。その肌は雪のように白く、シミ一つ無い。
少し憂い帯びた雰囲気ともあいまって、その少女はまるで月から舞い降りた姫君のようであった。
彼女は驚きに止まっていた息を吐き出すと、はにかむような笑みを浮かべる。
御簾越しに薄く見える筵の道にはもう誰もいない。だが、皇女はそちらへ目を向け続けていた。
「…………ありがとう」
ゆっくりと皇女は立ち上がった。
その小さな身体の膝の辺りまで、ふわりと長い髪が落ちる。
「わらわもまた、会いたいぞ……ムラクモ」
顔を伏せるようにして皇女はやっと御簾から目を離す。名残惜しそうに、その表情には寂しさと嬉しさが同居している。
イツは、目を閉じてさっきの光景を楽しそうに思い返していた。
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「父上、選定の儀よりただいま帰りました」
いかにも武家らしい厳めしげな木製の大門を潜り抜け、風流や雅さよりも無駄を極限まで省いた屋敷にヒヂニの声が響き渡る。
「入るがよい、ヒヂニ」
屋敷と同じく、戸塚 根足(とづか ねそく)の言葉は簡素で無駄が無かった。
肩に掛かる髪は半分以上が白く染まり、齢六十を迎えるネソクの顔には薄いシミや深い皺の数々が刻まれている。だが眼光だけは異常に鋭く、それが老いを感じさせない。