アカツキに散る空花
「……ふふ。可愛い花でしょう? アキトさんが摘んできて下さったのです。この暑いのにも関わらず……野で見ていたら無性にわたくしへ贈りたくなったとか」
「……わざわざご自分の手で?」
「そうらしいです。あの方は、おかしなお方ですので」
口元に手を当てて、ミツハは嬉しそうに笑う。声はそれほど大きく無いが、満面の笑みだった。
彼女が幸せそうに語るのは彼女の婚約者である岩塚秋人(いわつか あきと)という男の事である。
ヒヂニも何度か見た事があるが、いかにも実直そうな男だった。それに身体が弱く子供を生めるか怪しいミツハと婚約するために、自分の岩塚家をかなり強引に説得したというのも変わっている。
しかしだからこそ、身体の弱い姉を嫁に貰っても多少の体面など気にせず彼女を幸せにしてくれるだろう。姉が嫁に行ってしまうのは寂しくもあるが、それ以上に幸せになって欲しい気持ちの方が強い。
幸せそうにアキトへ想いを馳せる姉を、ヒヂニも嬉しそうに眺めていた。
だが弟のそんな表情に気付き、ミツハは恥じるように慌てて俯く。
「つい浮かれてしまい……みっともない所を見せてしまいました」
「いえ、よい事です。早く姉上の花嫁姿を見てみたいですね」
「もう、からかって」
ミツハは頬を赤く染めて唇を尖らせた。
それからふと、真剣な表情になってヒヂニへ向き直る。
「……そういえば、ヒヂニ。貴方は大丈夫なのですか? 神栄天衣に乗る事になったそうですが……貴方は昔から一人で背負い過ぎるきらいがあります……。英傑とはいえ、無理は禁物ですよ?」
「ははは、大丈夫です。ムラクモ相手に今日で五連勝、俺の実力はこの暁で間違い無く一番なんですから。戸塚家の名声はいまや天野家を凌ぐほどですよ」
胸を張って自慢げに語るヒヂニ。
それが少し、子供じみた所作だったのはきっとこの姉の前だったからだろう。
ミツハも「まあ」と感嘆の声を上げて、弟へ素直に感心したような表情を浮かべていた。
「それに……鬼達との戦いはもうすぐ終わりそうですし」
「え……それは? どういう事でしょう?」
「はい。実は、これはまだ一応秘密なのですが……かねてより造られていた特殊な天衣がもうすく完成を迎える、と聞きました」
「特殊な、天衣?」
訝しげに首を傾げるミツハへ、神妙な面持ちでヒヂニが頷く。
その彼の鋭い瞳も、今は異様な興奮で輝いていた。
「その天衣は――黄泉岩戸の亀裂を完全に塞ぐ、と」
「黄泉岩戸の亀裂をッ!?」
細い声を張り上げた直後にミツハは俯く。
興奮しすぎたのか、苦しそうに何度も咳き込んだ。部屋の隅で控えていた侍女が慌ててミツハに駆け寄る。
「ミツハ様、大丈夫でございますか!?」
「姉上っ!?」
「ええ、大丈夫……ごほっ。少し、大きな声を出しすぎました……ごほっ」
背中をさする侍女を手で制して、ミツハが深呼吸して気を落ち着ける。
「ヒヂニ……それはつまり、鬼達がもう出てこなくなる、という事なのですか?」
「そうです。五十年ほど前から造られていたそうですが、それがとうとうこの夏には完成すると」
「まあ!」
ミツハは瞳を輝かせて、満面の笑みを浮かべた。
「それでは……貴方が、危険に晒される事もなくなるのですね?」
「英傑としては物足りませんが……そうなります」
「何を言っているのです、戦いなど無い方が良いでしょう。素晴らしい事ですね、ヒヂニ! 良かった、本当に!」
彼女は瞳を大きく開いて、嬉しそうに顔を綻ばせた。この世の幸せを全て手に入れたかのような笑み。
その顔には健康的な血色が差し、一段と綺麗に輝いている。
ヒヂニはそれを見ながら、きっとこの姉に幸せを連れてこようと心の中で思うのだった。
●
時刻は宵の八時。暁宮の紫祭殿と中殿を繋ぐ暗い廊下を、二つの人影が歩いていた。
「すっかり遅くなっちゃいましたねぇ……。今日もお疲れ様です、イツ様」
「ん……。さすがに……疲れた」
手燭を持って先を歩くイクコの後ろから、ポツリと呟くイツ。
最近は神栄天衣が稼動した事により、皇女への負担が増している。あの二機は強大な力を与えてくれる代わりに、膨大な神力を要求するのだ。
イクコは心配そうに振り返る。月明かりと手燭の明かりが混じりあったせいか、皇女の顔色はよくないようだった。
「……イツ様、部屋に戻ったら滋養のある物でもお召し上がり下さいませ。私が言いつけて、すぐに作らせますので」
「……腹はいっぱいじゃ。いらぬ」
「まぁそう言わずに。お顔の色が優れませんよ」
そう言いながらイクコがずんずん進む。暗い廊下はともすれば手燭の頼りない灯りに揺らめき、恐ろしげな雰囲気に見えなくもないが、二人は気にも留めない。
ふと角を曲がった折にその景色が少し明るくなった。暁宮の中心にある神泉苑の水面が、かがり火に照らされている。
小船も浮かべられるほどの大きなこの池は、暁宮内で最も神聖視される場所だ。この池で汲んだ水に皇女や神官達が神力を注ぐ事で、あらゆる神水が出来上がる。
伝承ではその底には、暁が崇める父祖神イザナギが眠るとされていた。
月明かりとかがり火に照らされたその幻想的な雰囲気は……蚊さえ飛んでこなければ完璧だっただろう。
「あう……また刺された……。イツ様、ここは早く通り過ぎてしまいましょう」
ポリポリと首筋を掻くイクコがうんざりしたように声を掛ける。背後のイツも異存は無いらしく歩を早める。
蚊は神聖さなど無視して水場に大量発生するのだ。二人の認識では、ここはかなりの危険地帯である。半ば走らんばかりの歩みで縁側の廊下を渡っていく。
そうしてようやくの事で中殿に戻ると、まず痒み止めの薬を刺された場所に塗った。
「……はい、これで痒みは引くはずですよ」
「うむ。……かなり楽になったようじゃ。助かったぞ、イクコ」
ホゥッと息を吐いて微笑みを浮かべるイツ。
その首筋、前腕、ふくらはぎにそれぞれ深緑の薬が塗られている。見た目には悪いが、あの強烈な痒みの前にはそうも言ってられない。薬の効果か、痒みは早速引き始めていた。
「では寝具の準備をいたしましょうか。明日もお早いですよ」
言いながらイクコは、イツの羽織っている千早に手を掛ける。そうして次々と着替えを手伝っていきながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そうそう、そういえばイツ様。結局ムラクモ様は負けてしまいました」
「む? なんじゃ……また負けたのかや」
「あ、いや、でもでも惜しかったですよっ。次こそは勝てるんじゃないでしょうかねー」
実際はかなり一方的な勝負だった事は、素人のイクコの目にも明らかだった。
しかしそれをわざわざ正直に言ってイツを凹ませる必要は無い。それとなく話を逸らす。
「そ、それにどちらが勝ったにせよ、あのお二人が居れば安心でございましょう! 神栄天衣アマテラスとツクヨミに乗ったお二人は、人工天衣とは比べ物にならない圧倒的な強さだとかお聞きしますよ!」
「……じゃが、わらわは――――神栄天衣が嫌いじゃ」
「……え?」
そんな突然の告白に、イクコの言葉の勢いが止まった。そして無意識にイツの顔へ目を向ける。