ゆく河の舟で三三九度(第一話)
笹岡の様子には気付かず、健二は立ち上がると、では行きましょうか、と房子を促した。房子は眼を細めて頷くと、着物を着ているときのようなしなやかな動作で立ち上がった。
建物の外へ出ると、多摩川堤防沿いに咲く桜並木がちょうど見頃を迎えていた。
「満開ですなぁ! せっかくだからちょっと桜の下を歩きましょうか。それで、疲れたらバスに乗りましょう」
健二が提案すると、房子もうなずいてしたがった。
堤防への階段を上るときに、健二は「房子さん」と言って左手を差し出した。房子は健二の顔をちょっと見てから、少し照れた様子でまばたきをするとその手の上に自分の右手を重ねた。か細い手からは、思っていたよりも高い体温が伝わってきた。房子は、今度は少し神妙な顔つきになって、うっかり転んでしまったりしないように、自分の足下を見つめながら歩んだ。
階段を上りきると、左には多摩川の河川敷、右には長く桜並木が続く光景が目に飛び込んできた。土手の青草と桜のピンク、そして青い空のコントラストが映えている。花見客も多く、舗装された道を一歩出るとレジャーシートが桜の根元に所狭しと広げられていた。
健二はふいに何かを思い出して、ふふ、と笑った。
「『お見合いの日』って知ってます?」
「そんな日があるんですか?」
「ええ、十一月六日に。由来はね、この多摩川で戦後初めての集団お見合いをしたのが十一月六日だったからだそうですよ」
「まぁ、川沿いで」
健二はうなずいて続けた。
「きっと、この結婚相談所が多摩川沿いだったからでしょうね。…昨日、夢を見たんですよ。ちょうどこういう桜の咲く、川の側で」
房子は驚いた様子で健二を見た。
「本当に? 私も見たのよ! 昨日、桜並木の咲く川沿いの夢。そう、川のところに老人ばっかりが一列にこう並んでて、歌いながら…」
「ああーっ、房子さん!」
房子が夢の内容を話そうとすると、健二は慌てた様子で叫ぶと、顔の前に人差し指を立てて「しーっ」とやった。
「夢は人に話すと、本当にはならなくなると言いますから」
健二はそう言うと、また前を向き歩き始めた。自分の口の中で独り言でも言うように、健二は続けた。
「私も、見たのはきっと同じ夢だったと思っていますよ。だからこの先は、私も内緒です」
*
笹岡は盆の上に二人に出した湯飲み茶碗を乗せた。一人残った相談所の室内で、その音はびっくりする程大きく響いた。給湯室に運び、水を流す。磨りガラス越しに入る北向きの静かな光が笹岡の頬を照らした。
湯が沸くと、笹岡は自分のための茶を煎れた。
湯飲み茶碗片手にカルテを取り出してぺらぺらめくる。――和佐井健二。健二の項が出てきた。履歴書のように写真が紙面の左肩に貼られ、履歴書のようにプロフィールが続く。
和佐井 健二(わさい・けんじ)
193x年10月xx日生 72歳 男
結婚歴 1回 離婚の理由――
笹岡は意図的に視線をずらした。出した煎餅を囓って飲み込み、茶で更に流し込んだ。
続く健二の生い立ちに目を移す。
193x年10月、健二は東京の府中で生を授かった。その数年後、太平洋戦争が勃発し、健二は戦時下で幼少期を過ごすことになる。
1945年08月 終戦
終戦直後のことは、健二はあまり話したがらなかった。父の戦死、残された母とどうやって生きていくか。まだ幼い健二にはどうすることもできないことがあまりに多かった。
195x年04月 中学卒業
この頃、健二は中野へと引っ越している。母が再婚したのだ。経済力のある新しい父の下、健二は高校へと進学するが、新しい父との折り合いはうまくいかず、高校を卒業するとすぐに家を出て就職。高田馬場の学生街付近に住まいをただし、デパートのレストランで働き始める。
笹岡はそこで一度息をつき、手を止めた。老人専用の結婚相談所として開いたこの場所だったが、自分の何倍もの時間を既に生きた人々の身の上を聞くのはなかなか労力のいる作業だった。そして、その話を元に誰を紹介するか候補を出す。現在だけを見て決めればいいのではない。右へ左へ、蛇行していった人生の、全体の有り様を見て決めるのだ。
自分の選択は本当に最善だっただろうか。しかし、そう信じるしかないのだ。それは笹岡がこの職に就く以前に、嫌と言うほど身につまされたことだった。
笹岡は、記された過去にメスを入れるようにページをめくった。
196x年05月 美千代と結婚
働き始めてから六年の月日が経った頃、健二は同じレストランでウェイトレスとして働いていた美千代と結婚する。健二、二四歳のときだった。
美千代との結婚のポイントは何だったか。カルテには「顔」、「おしとやかな振る舞い」、「闊達な言動」と記されていた。笹岡は、それを語っていたときのやけに朗々と話す健二の様子を思い出してふ、と笑った。
197x年09月 「洋食レストラン わさい」開店
時代は高度成長期の波が押し寄せていた。美千代との間に二子を授かった健二は、デパートのレストランを辞め、独立開業することを決意する。生まれ故郷の府中に開いた「洋食レストラン わさい」の経営は順調で、近辺に三つの支店を開くほどになる。
しかし、健二の挑戦はとどまるところを知らなかった。その後、「洋食レストラン わさい」はさらに店舗数を増やしていった。エリアも拡大し、都内に一〇店舗を構えるようになる――。
笹岡は突然ぱたりとカルテを閉じた。手元の茶を流し込む。口の広い湯飲みは冷めやすく、もう温くなっていた。
*
健二と房子の二人は川面を見渡せるベンチに座り、その流れゆく水の調べを聞いていた。
やや西に傾いた日はせせらぎをまばゆい銀の屑に変えていた。
「川は、一方にしか流れないんですね」
健二は一言一言含めるようにそう言った。房子は、少し心配そうな顔で健二を見た。
「いや、すみません。少し昔のことを思っただけです」
健二は房子の様子に気付き、そう続けた。二人の間に、沈黙が訪れた。言葉にしないだけで、健二の思考は続いていた。それがもたらす空白の時間だった。
「房子さんと、初めて出会った日のことを考えていたんですよ」
「嘘ばっかり」
*
笹岡は再びカルテをパラパラとめくり、房子の項を出した。
窪池 房子(くぼち・ふさこ)
194x年06月xx日生 65歳 女
結婚歴 1回 離婚の理由 夫からの暴力、浮気
この冒頭から、笹岡はため息を漏らした。房子の人生の中盤は波乱に満ちていた。大きな台風が房子の人生を襲い、洗いざらい持って行ってしまった。
194x年06月――戦後のベビーブームの真っ直中に房子は生まれる。学芸大学の脇に住む大地主の娘だった房子は、何の不自由もすることなく成長する。そして、親の持ち込んだ縁談を承諾する。
196x年08月 結婚
ここから、房子の長い長い嵐が始まる。その嵐がようやく去り、房子の人生に再び光が射すのは、房子が壮年にさしかかる1980年代に入ってからのことだった。
作品名:ゆく河の舟で三三九度(第一話) 作家名:深森花苑