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ゆく河の舟で三三九度(第一話)

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淡い光の中ではらはらと桃色の雨が降っていた。桜の花と花の間を縫い、ささやきのような風が渡っていく。そして桜の枝を揺らす風は、うららとまどろむ人々の呼気を川面の高い空に運んでいった。
 桜の花の蜜を吸っていたヒヨドリが飛び立っていった。あっという間に高いところまで羽ばたいて、青空の小さな黒い染みとなってしまった。後にはなんの音もしない。雲の流れが空を覆うくらいだ。
 川のほとりには花のもたらす春の芳香が満ち満ちていた。桜並木の華やいだ雰囲気とはうってかわって、川は静かに流れ続けている。そしてその川の上を、シジミチョウがいつまでも土に腰を落ち着けない桜吹雪のごとく舞い続けていた。
 シジミチョウの背景には、背の低い雑草の緑や丸みを帯びた石ばかりの、よくある河原の風景が広がっているはずだった。しかし、そこはいつもと様相が違っていた――人が川に向かって、一列に並んでいたのだ。その上お互いに手を握り合って。そして河岸にそうやって並んでいたのは、どれも還暦は過ぎているであろう老人ばかりだった。
 老人たちが並んでいるのは岸の一方だけではなかった。川を挟んだもう一方の岸にも、やはり同じように手を繋いだ老人たちが一列に並んでいた。しかも、片方の岸には男性しかおらず、その反対の岸には女性だけだった。
 お互いに向き合って、静かに、軽やかに、両者の間をただ川のせせらぐ音だけが流れている。
 川べりに並んだ老婦人たちは、決意をもったまなざしで、まっすぐ、同じように対岸に並んでいる老紳士たちを見つめた。そして両の手に繋がれた隣り合う者の手を、一層強く握り締めた。手の皺が重なると、弱々しく見えたそれから力強い息吹が零れ落ちた。
 列から少し離れたところで一人で立っていた、全身黒のスーツに身を固めた金縁眼鏡の堅物そうな若い男が拡声器を構えた。
「それでは、始めてください!」
 拡声器を通した割れた男の声が河川一帯に響いた。一斉に、老人たちは大きく息を吸い込んだ。
『咲いて嬉しいはないちもんめ!』
『あげて嬉しいはないちもんめ!』
 突然、老人たちははないちもんめを口ずさむと、彼岸の老人たちに迫りながら片足を川のほうへと蹴り出した。
 かけ声が両岸で一巡すると男性ばかりが並ぶ列の方から、一人の老人が身を拘束する鎖を引きちぎりでもするかのような勢いで前に出た。周囲の人間もこの老人に連られて、列は大きな「く」の字型に歪んだ。前に出た老人は猛々しい獣のように、力の限り上半身を前へ前へと出すと、唾を飛ばさんばかりの勢いで叫んだ。
「フサちゃんが欲しい!」
 それと時同じくして、対岸の女性列からも一人の老婦人が周りよりも一歩前へ出ていた。小さな身体を屈め、ありったけの力を込めて叫んだ。
「ケンちゃんが欲しい!」
 空高く、ヒバリが鳴いた。誰もが息をのみ、緊張のあまり手に力を込めた。早鐘を打っているはずの心臓の鼓動さえ、高く跳ね上がった球が落下する速度で聞こえた。
 コンマ一秒が流れる長い時間が経った後に。
「おめでとうございます! カップル成立です!」
 拡声器が叫んだ。
 人々はお互いの顔を見合わせると、快哉を叫びながら抱き締め合った。手を叩いた。辺りの音はかき消されてしまった。どこからかやってきたチンドン屋は喜び勇んだ老人に当たり鉦を奪われた。しかし、その分太鼓をいつもより多く鳴らすことで、この場の祝祭ムードを全面的に肯定した。やった、やった、と繰り返しながら跳ね回る老婦人たちの髪は女学生のお下げのようにつややかに輝き出し、やがて本物の女学生となってしまった。
 化けていた狸は本来の姿に戻って腹鼓を打ち出し、はしゃぎすぎて水面を走り出すかなづちの男もいた。ある一匹の虻だけは、この喧噪を免れた野原の片隅でたんぽぽと口づけを交わしていた。馬鹿騒ぎをちらりと見遣ると、また情事の続きへと耽っていく。
 青い空に花火の白い光が散った。次から次へと舞い上がり、二人に捧げられる大きな花束となっていく。
 お祭り騒ぎのごったがえしの人混みの中でケンちゃん――和佐井健二――とフサちゃん――窪池房子は、そこに川の隔たりがあるのも忘れて見つめ合っていた。二人は終始微笑んでいた。互いの笑顔を見ると、余計に笑顔が溢れてしまうのだ。
 川面を飛び続けていたシジミチョウが健二の手に止まった。健二はシジミチョウを送り逃がすように、対岸の房子のほうへと手を伸ばした。すると、シジミチョウはひらひらと飛び立ち、房子の頭に止まった。まるで健二から送られた髪飾りのようだった。
 房子が小首を傾げると、シジミチョウは二人の間に結び切りの放物線を描くと高いほうへ飛んでいった。
 ひらひらと、銀の糸は太陽の光に解かれてやがてどこにも見えなくなった。

 *

「して、お見合いは無事成立しましたので、」
全身黒いスーツに身を包んだ笹岡は必要な書類を封筒の中に入れると、緊張した声持ちで、
「おめでとうございます」
と一息に言うと、賞状でも授与するようなかたちで封筒を健二に手渡した。健二も、右手、続いて左手、と順々に封筒に手をかけて受け取ると、おでこのところにちょん、と封筒をつけてにんまりと笑った。
 健二の隣には、窪池房子が座布団の上で陶器の置物のようにちんまりと鎮座していた。もう何十年もそうやって健二の隣りに添い遂げていたかのように、房子が健二のそばにいる様子は早くもなじんでいた。
 笹岡は、和佐井の顔を見て、窪池の顔を見て、口角だけを上げ白い歯を見せた。いや、笹岡本人としては、これは歯を見せたのではなく、笑ったつもりなのであった。しかし、その笑みは、機械を思わせる不自然な笑みだった。笹岡の細い金縁の眼鏡は笑みがもたらした息によって曇り、笹岡をより一層人の血の通っていない不気味な人物に仕立て上げていた。
 ここまで笹岡の笑顔が不自然になるのも無理もない。彼はついこの間まで笑うことを許されない職についていたのだから。
 健二と房子はそんな笹岡の不気味さなど意に介すこともなく(単に見ていなかっただけなのだが)健二が手にした封筒を二人の間に授けられた第一子でもあるかのようにをみつめていた。実際には、二人の間に子供がこれから授けられることはない。しかし、それが二人の絆を弱める理由になどならないことは、この様子からも明白なことだった。
 これから始まる生活のすべてを、二人は生まれたばかりの雛鳥のように感じるだろう。昨日まで、何十年も歩き慣れてきた駅までの道のりも、押し入れから布団を出して明かりを消す瞬間も。
 二人の様子は、降り止まないライスシャワーのなかで純白のウエディングドレス姿の花嫁と腕を絡ませられた新郎が感じている満ち足りた想いとなんら変わりなかった。
 「新しい封筒ですね」
 封筒の印字面を見て健二がぽそりとつぶやいた。まだ印刷してからひと月も経っていない封筒の金文字の社名がぴかぴか光っている。笹岡が一瞬、ぎくりとした表情を見せた。しかし、すかさず
「今月仕入れたばかりの初物ですから」
と言うと、こんどはあの不自然な笑みからは想像できない、典型的な笑顔を見せた。