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ゆく河の舟で三三九度(第一話)

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 房子はその頃、得意の洋裁で生計を立てていた。なかでも衣服の修繕は「跡が分からない」と近所でも大層評判だった。大事な服のお直しは房子の所へ。新聞の取材が来ることもあったが、房子はそれを頑として拒み続けた。

 *

「私はね、前の夫と川に来たときのことを思い出してました」
 房子の目は遠くを見つめていた。
「川なんか見ないで、歩くばっかりの人だった」
 また二人の間に沈黙が流れた。
「じゃあ、もうちょっと見ていましょう」
 健二は房子に微笑んだ。
「時間はいくらでもありますから」
 房子は吹き出した。
「こんなによぼよぼになりかけの、じじいとばばあなのに?」

 *

 笹岡は祈るように天井を見上げた。
 どうかどうかどうか。
 神様というものを、笹岡は信じたことがなかった。頼る、ということが嫌いだったのだ。よくわからないなにかに祈るくらいなら、自分を拝み倒したほうがいい。それが笹岡の信念だった。
 しかし、今回ばかりは祈らずにはいられなかった。そうか、祈るとは、自分の手の届かない何者かの為に捧げるものだったのか。そんなことに笹岡は今さら思い当たりもした。
 笹岡がこうまで思うのは、健二と房子がいまこのカルテの束のなかで一番始めに送り出したカップルだったからであろうか。それとも、健二と房子が抱えるある境遇のせいであろうか。
 どちらかはわからない。
 笹岡は、自分の身を流れるまだ慣れない柔らかな感情に戸惑っていた。

(第二話へ)