秘密の花園で待つ少年 ~叔母さんとぼくの冒険旅行~
飛行機の飛び立つ重力と浮き上がった浮力で、胃の中がかき混ざったったような嫌な不快感もしばらくすると落ち着き、ハングル語と英語と日本語のアナウンスが機体の安定体制に入ったことを告げた。シートベルト着用ランプがいまだ点灯しているが、お客さんは落ち着いたのかザワザワとざわめき始めた。
ぼくと万理おばさんもそれぞれ目の前のモニターを動かして機内情報やラジオ、映画の検索を試していた。ぼくは当初の予定通り、『スパイダーマン』を選んで見始める。
映画も中盤に差し掛かる当たりだった。そのころにはシートベルト着用ランプも消えて歩き出している客がちらほらいる中、客室乗務員さんが台車を持って前方から順にプレートを配り始めている。
「あら!お待ちかね機内食よ。」
万理おばさんが嬉しそうに言った。
しばらくすると、ぼくたちの前に客室乗務員のお姉さんが近づいて言った。
「失礼いたします。お食事はポークか、ビビンバのどちらかになります。いかがいたしますか?」
日本語だ!と驚くぼくたちに不思議そうに首をかしげて微笑んだのを見て、慌ててぼくは「ビビンバ!」と答えた。
「私も同じビビンバをください」
「かしこまりました。お飲み物はコーヒー、お茶、オレンジがございます」
「私はお茶ね。この子はオレンジでお願いします。」
「はい、少々おまちください」
客室乗務員さんは台車からプレートを二つ引き出すと、ぼくたちに一つずつ置き、ぼくにオレンジジュースを、万理おばさんに緑茶を渡して次の列に移動した。
「みんな日本語をしゃべれるのかな?」
「どんな時にも対応できるようになっているのね~。いやぁ助かっちゃった! チャイナエアラインに乗ったときは、男のCAの英語がよくわからなくてポークとチキンどちらかが聞き取れなくて困ったのよねー」
あははと笑って万理おばさんは袋に入ったスプーンを取り出す。
「万理おばさん、全部袋に入っているよ。ご飯はアルミホイルがかぶせてある! この絵の具のチューブみたいなのなんだろう…?」
「んー。ああ、コチュジャンね。薬味みたいなものよ。甘辛い味噌よ。付けすぎると辛いけど…まあ、食べてみなさいな。」
「わわ!赤い絵の具みたいだ!」
周りをよくみると、みんなよくご飯を混ぜてビビンバが真っ赤になっている。
「うーん、器が小さくて混ぜにくいよね。これ」
「私、カレーでもサラダでもあまりぐちゃぐちゃに混ぜるの好きじゃないのよ。……なんか汚くみえるのよね」
万理おばさんは最後の言葉を耳元でこそっと小さく言った。
実は、ぼくもそれには賛成だ。カレーも手前からすくって食べるのでご飯だけが残ったり、カレーだけが残ったりしてしまうことが多い。
でも、混ぜると皿も余計に汚くなって見た目も悪いと思う。そんなわけで、二人のビビンバは好きなところにコチュジャンを塗りながら、端から少しずつ平らげていかれたのだった。
付け合せの果物も食べ終わったころに、乗務員のお姉さんが再びプレートを回収に回って来た。ぼくはコチュジャンのチューブがやたらと気に入って、きちんと蓋を閉め、袋に入れてウエストポーチに仕舞い込む。
「やぁね。そんなの取っとかなくったっていいでしょ。帰りも韓国に寄ることになるんだから、お土産に買えるかもよ?」
「また、道を間違えたりとか、時間を間違えて買い物できなくなるかもよ?」
「っこの!可愛くないガキめ…」
そんなことをいいながら、しばらくすると韓国の仁川空港へ着陸することになった。
仁川空港に着陸したのち、すぐには飛行機は止まらなかった。
ゆっくりと飛行機は旋回し、道路を走って機体を横づけするまでに数十分。その間ぼくはそわそわと落ち着かなくその時を待っていた。
食事の後、余裕で映画を堪能していたのだが、なんとなくおしっこがしたくなって席を立った。
ところが、そのころにはトイレはたくさんの人で列をなし、前後方六つあるはずのトイレはすべて埋まっていたのだ。
しばらく待っていたのだが、それでもなかなか人の列は動かない。どうやら、トイレで歯磨きなどをしている人がいるようだった。そうこうしているうちに飛行機は着陸態勢に入ってしまい、シートベルト着用サインのランプが点灯、乗務員さんに促されて仕方なく席に座ったのだ。
その時はまだ余裕があったのだが、飛行機が着陸してからが長かった。
やっと、止まって棚から手荷物を取り出して、出口から人が流れ出したはいいが、やっぱりゆっくりとしか進まない。
「も、もうちょっとだから我慢してねっ」
「…うん。」
ぼくの顔色を窺いながら、万理おばさんは列に割り込む様にぼくを前に進ませた。
機内を出てからも、走らずそれでも急いで通路を渡り、万理おばさんは慌てて「トランスファーとトイレ…」とぶつぶつ言いながら案内表示板を探した。
「あ、あった! 大丈夫?外国だろうがトイレは似たようなもんよ。一人でできるわね?」
「うん。そこに居てね、万理おばさん。」
「何かあったら大声で呼びなさい。男子トイレくらいなら気にせず入れるから。」
そこは、気にしてほしい。
ぼくはダッシュで中に入り、間一髪セーフ!
旅立ってすぐに『恥のかき捨て』になってしまうところだった!
落ち着いてみると、アジアの空港というにはとてもきれいな建物で、ぼくはぐるりと室内を窺う。便器もきれいだし、鏡も大きい。
トイレを出てからもそれは感じた。
高い天井に明るい室内、大きな掲示板や看板、きれいな客室乗務員さんがパイロットらしい男の人とにこやかに話しながらぼくたちとすれ違う。免税店が目立ち始めるとどこからかアジア風な音楽が聞こえる。
「万理おばさん、楽器演奏やっているよ!」
「へえ、ゆっくり見ていきたいけど、乗り換え時間があまりないし、帰りもこの空港を使うからその時に聴こうね。」
さまざまな弦楽器を、韓国の大きなスカート風の民族衣装をふんわり膨らませて座って奏でているのをぼくたちは横目で見ながら通り過ぎて行った。
三時間、移動しただけでもう異国の地にぼくたちはいるんだ!
どきどきしながら周りを見渡す。アジアな顔が多いのかなと思ったけど、白人や黒人も結構多く、人種も違うというのがなんとなく判る。
「日本より外国人が多いような気がする…」
「お、よくわかってんじゃない。ここは、アジアでも有名なハブ空港なのよ。」
「ニュースで聞いたことがある。都知事が羽田空港をハブ空港にしたいって言うのを」
「成田じゃ、都内に入るのも乗り換えや時間がかかるし、国内に移動するのも羽田まで行かなくちゃならない、交通の便が悪くて不便なのよね。その点、仁川空港は首都の移動も一本、国内のほかの空港に乗り換えも自由、国外乗り換えには西にも南にも日本にもたくさん航空便があるから便利なの」
そういえば、水分補給に買ったジュースやおやつのチョコは日本円と韓国ウォン、アメリカドルのどれも使うことができるようになっている。いろんな人がこの空港を使うことがあるってことだ。
そう、考えながら赤い包み紙のチョコを一口で食べる。
ん? んんん?! 辛い!!!
慌ててジュースを引っ張り出してチョコごと飲み込んだ。
作品名:秘密の花園で待つ少年 ~叔母さんとぼくの冒険旅行~ 作家名:露寒