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澤田文左衛門家の跡目相続

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と、房が突然、正伊に問いかけた。このとき、正伊は自室で書見していたのである。房が正伊の部屋に出向いたのは、自分の部屋に呼びつけることをためらったからであった。
だが、この配慮は逆効果であったようである。正伊は書見を妨げられて不愉快であった。その上、話の内容が正伊を驚かせる。
「何と仰りましたか。徳と相談なさった上でのことでしょうか」
と、正伊は聞き返すのがやっとのことであった。
「いや、かかる話は、先ず婿殿の存念をお聞きしてからでないと、嫁殿に話すことは出来ませぬ。まして、嫁殿は臥せておられること故、気に障ってはならぬ。婿殿が納得されれば婿殿から話してくだされ。お願い申します」
と、房は丁重であったが、否応言わせぬという気迫が見られた。
 徳が長女・絲を連れて、小泉の実家・小保総左衛門屋敷に戻ったのはそれから三ヶ月後である。総左衛門の説得を受け入れてのことであった。小泉に戻ってからの徳は、日増しに元気を取り戻し、長女・絲の世話も出来るまでに回復した。総左衛門もことのほかの歓び様である。総左衛門と徳とは五歳違いの兄妹である。
「そなたの夫・正伊殿には、房様という大きな後ろ盾がいなさる。あのかたは藩侯ゆかりのお方じゃ。必ずや良き様に計らってくださるであろう」
と、総左衛門は、徳が江戸詰の夫・正伊のことを気にかけている様子を察知していた。
 総左衛門には、房にたのまれたとは言え、徳の長男・計之助を三歳で寺坊に遣わした心の痛みがある。
「武家でなければ、あのような処置をせず、計之助の成長を楽しんだものを、残念なことであった」
と、総左衛門は、絲を膝に乗せて抱きかかえて、布団の上に座っている徳に、自らも畳の上に座して向かい合う。
「絲は手放しませぬ」
「女児故、その必要はあるまい」
と、二人は納得し合っている。
 だが、この二人には、いまひとつ、心を悩ませている嫌な事件があった。正伊の御勤めぶりに兎角の噂がある。藩の武器預かり役を仰せ付かっている正伊が、銃器刀剣の横流しをしているとか、武器商人から賄賂を貰っているとか、よからぬ噂が小泉藩の国許にまで伝わっている。
「真偽のほどは確かではない。しかし噂が立つのは困ったこと。房様も大層に気掛かりなことでありましょう。徳に里での静養を勧められたのもそのことにかかわりがあるやも知れぬ」
と、総左衛門は正伊の動静を気にしている。徳のためにも噂は嘘であって欲しいと願っているが、不安は隠せない。
「兄じゃに心配を掛けて申し訳ない。わたしは、男運の悪い女に生まれたようで残念でなりませぬ」
と、徳は自分を振り返っているようであった。
「そなたに、そのような思いをさせるのはまことに辛い」
「いや、兄じゃのせいではありませぬ。子は授かってもその子を育てることは出来ぬ定めがこの身に纏いついていますのじゃ」
と、徳は身の不運を定めだと、諦めるように言った。
「兄じゃと房様がこの身を按じてくださるのはありがたいことだと感謝しておりまする。最初の婚家で宿しました男子はまこと殿様のお子でありますが、その後、ご舎弟に懸想されたのが災いの元になりました」
「そのことは済んだこと、今は正伊殿の行状に不安がある。徳が側におれば、正伊殿の気も休まるであろうに、思うようには行かぬものよ」
と、総左衛門は、絲を寝かせている徳の背に言う。
「房様に叶う者は居りませぬ」
と、徳は房の影に怯えているようであったが、総左衛門は徳を慰める言葉を咄嗟には発することもできなかった。

 徳は、文化十一年(1814)甲戊二月九日、四十三歳にて病死した。夫・正伊が文化九年(1812)壬申六月二十一日に江戸藩邸在番中に脱走してから僅かに一年七カ月十九日しか経っていない。房の留書きには、
「日に日にやせ衰えられるさまは、気鬱の悪霊に取り付かれておられるようであった。徳さまをこのように難渋させたのは、もとはと言えば、私が、計之助、絲を他家に遣わしたから起きたこと、松太郎に跡目相続させたいがための私の心が鬼を呼び寄せたとしか思えぬ。松太郎が、わが夫・正則殿の実の兄・松川綱右衛門殿の娘、八尾の子であるがゆえに、私は、ことさらにいとしさを覚えていたのであろう。正伊殿に武家の覚悟が無きために徳さまに余分の苦労をおかけしたは、返す返す残念なことであったが、それは、徳さまに対する私の仕打ちの言い訳にはならぬ。徳さまの兄君・小保総左衛門殿のお気持ちをも忖度させていただいて、徳さまを懇ろにお送りせねばならぬ」と記されてあった。
 この留書きの趣を写すように、徳は丁重に葬送されたのであろう。本住院妙性日妙大姉の法名にて小泉大法寺に埋葬されている。これより十三年前に死去した八尾は、同じく小泉大法寺の澤田文左衛門家の墓所に、善性院妙信日有信女の法名にて墓碑が立てられている。だが、房の墓は、随圓院妙喜信女と、院号を冠しているが二文字の信女である。この頃、澤田文左衛門家は正績が跡目相続を許されていたが、養父・正伊の不始末を受けて家禄を減ぜられていた。
 
 澤田文左衛門家最後の継承者である正健(マサタケ)は、元治元年(1864)甲子正月十一日、給人幼年席大小姓に召出され、蔵米八石二人扶持を賜っている。元治二年(1865)乙丑二月九日、関口新心流柔目録傳授を受け、同月、江戸城呉服橋御門番士を命ぜられた。慶応二年(1866)丙寅二月朔日、近習勤務を命ぜられる。同年八月休息御暇を蒙って帰国。翌年の慶応三年(1867)丁卯十月朝政復古維新仰せ出される。この翌年の明治元年(1868)戊辰正月、城州伏見戦争後、城州鞍馬山峠御固出張を命ぜられる。同年二月、城州八幡山西方腰折峠御固に転ずる。同年同月、藩政改革仰せ出される。明治四年(1871)の廃藩置県で廃藩となる。正徳元年(1711)年以来存続した澤田文左衛門家もここに百六十年の武家としての存続に終止符を打つことになった。その最後まで、知行を与えられる格式のある武士に対して与えられる「給人」という家格を守り得たのである。(了)
 
             
 




























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