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「月傾く淡海」 最終章 そして、飛鳥へ

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 稲目は、皇子の言葉に従う。しばらく見ぬ間に、また皇子は風格が増したように感じられた。
「お呼びでございましょうか、皇子さま」
「ふん。用があるから呼んだのだ。--勾の兄上が、次の大王になるそうな。そなた、知っておろうな」
 広庭の皇子は、単刀直入に切り出した。
「--は。存じております」
「勾の兄上は、人はよいが、ただそれだけの男だ。父上は兄上をかわいく思われたのだろうが、それでは宮は治まらぬ。--大王の、器ではないよ」
 皇子は、自分の兄をにべもなく言い捨てた。
「--勾の兄上の次は、高田の兄上だそうだ。あの愚か者の、高田! そこまで、がちがちに順番を決めてどうする? 俺は、奴らが天寿をまっとうするまでなど、待てぬぞ?」
 広庭の皇子は苛立ったように床を叩いた。
「父上は、ご自分が苦労されたものだから、よけいな気を回して、間違った遺勅を残されたのだ。奴らは、大王に相応しくない」
 広庭の皇子は躊躇なく言い切った。
「大王になるのは、この俺だ。皇后の子だからではない。俺に、その資格があるからだ。若年などということは、理由にもならぬ。--蘇我の。俺は、兄二人を討つぞ。そして、俺が大王になる」
「……」
 皇子を見上げた稲目の額を、冷たい汗が流れ落ちた。
 広庭の皇子はあけすけに語っているが、これは明らかに武力による政権奪取を持ち掛ける話だ。余人に聞かれたならば、立場はおろか、命すら危ない。
「稲目、お前のことは見てきた。お前は、優秀な男だ。俺につけ。俺を、大王にしてみせろ。そうすれば--俺は、お前を『大臣』にしてやる」
「大臣(おほみ)に……でございますか?」
 掠れた声で、稲目は皇子に問い返した。
「そうだ。先の葛城の長が亡くなって以来、ずっと空席のままになっていた『大臣』の座だ。--出自の卑しいお前は、どれほど優れていようと、今のままでは大夫止まりがせきの山だ。だが、俺はそんなことには拘わらぬ。俺の為に力を尽くす者には、最高の位をあたえる」
「最高の位を……」
「ああ。大夫ごときで満足しているようなお前ではあるまい? お前が『蘇我』の始祖となり、以後永代に続く一族の繁栄を築いて見せろ!」
 広庭の皇子は、共犯者を脅すように、稲目の瞳を覗き込んだ。
 この年若い皇子には、わかっているのだ。稲目が内に抱え込んだ、深い野心の炎が。
 稲目の心が揺れたのは、皇子の言った「一族の繁栄」という言葉だった。
 確かに広庭の皇子に加担し、成功すれば--そこから、蘇我一族の栄光に満ちた歴史は始まるだろう。
 だがそれは、実は「始まり」ではない。稲目の体に流れる「葛城の血」の--誰もが滅んだと思っている、葛城一族の栄光の「復活」なのだ。
 広庭の皇子は、「近いうちに返答しろ」と言った。
 彼には、確かに凡庸な兄二人とは違った、非凡な才が--一種独特の、人を引きつける能力がある。
 だが同時に、皇子は危うい危険性をも孕んでいた。広庭の皇子は、切れすぎる諸刃の剣なのだ。使い方を誤れば、自らの身をも滅ぼす。
 稲目は、自分一人では判断できないと思った。
 尋ねなければならない、『彼女』に。
 豊浦の自邸に戻った稲目は、すぐに裏庭に設けた「神域」へと向かった。
 そこには、一本の若い銀杏の木が植えられている。
 葛城の所領が没収されるとき、稲目はそれをこっそりと見に行った。そして、何かに呼ばれるようにして葛城山に入り込んだ稲目の眼前に現れたのは、齢数百を経た、と思しき大銀杏の神木だった。
 自分でも何故そんなことをしたのか判らないが、稲目は大銀杏の根の一部を掘り起こして持ち帰り、自宅の裏庭に埋めた。根付くかどうか心配だったが、十数年を経るうちに、銀杏は立派な若木へと成長した。
 不思議なことに、その銀杏は、一年中金色の葉をつけているようになった。
 稲目はこの若木を神木と定め、周囲に注連縄を張って神域を作ると、自分以外の家人が立ち入らぬよう、厳重に言い含めた。
 その頃からだった。稲目の前に、『彼女』が現れるようになったのは……。
 稲目は、夕日を浴びて金色に輝く銀杏の前に立つと、それに向かって呼びかけた。
「……お尋ねしたきことがございます。来たりませ、我らが守り神!」
 稲目の呼び掛けに答えるように、突如として一陣の冷風が吹いた。
 一斉に金色の葉が舞う。
「……我は、善事も一言、悪事も一言に言いのべる神。ことさかの、葛城の一言主の大神なるぞ」
 稲目が顔を上げると、若木の一番低い枝の上に、奇怪な装束をつけた嬢子(おとめご)が座っていた。
 彼女は、膝丈の短い裳をつけ、素足に高歯の下駄を履いている。
 少女の長い髪は輝く銀髪で、左手には古い長矛を握っていた。そして、彼女はその顔に複雑な文様の入った仮面を付けている。
「何用かな、稲目」
 少女は稲目を見下げながら恬然と言った。
 彼女は、十四、五歳くらいに見える。稲目の前に姿を現わすようになってから長いが、その容姿はずっと変わることなかった。
 この「一言主」が初めて稲目の前に出現したのは、宮で重用され始めた彼が、己の出自に悩み出した頃だった。
 古い葛城の神である「一言主」は、稲目が紛れもなく誇り高い葛城一族の末裔であることを告げ、その上でその出自を隠し続けるよう命じた。
 彼女は、事あるごとに稲目の前に現れ、彼の知り得ぬ様々な事柄を教え、迷える稲目を導いてきた。
 稲目が宮内で今日の地位を築けたのも、全ては彼女から下された託宣があったからと言っても過言ではない。
「次代の大王について、お尋ねしたきことがあります」
 そういうと、稲目は一言主に、広庭の皇子から持ち掛けられた話のあらましを語った。
 黙って稲目の話を聞いていた一言主は、しばらく考え込むように俯いていたが、やがて得心がいったように何度も頷いた。
「……『葛城は滅びない。形を変えて、生き残る』か。成程ね……円がやろうとしてたのは、こういうことだったのね……」
 ひとり感心したように呟き、深くため息をつく。
「一言主さま、『円』とは……?」
「んー? とね、お前には教えない。お前が知る事ではないから」
 そういうと、一言主は、からからと笑った。
 彼女は、この世ならぬ生き物である。彼女は磊落で、飄々としていて、掴み所がない。
 長い間に、稲目は一言主との付き合い方を心得ていた。とりあえず、彼女が告げる気のない事柄については、深く聞き返しても無駄である。答えは、決して返りはしないのだ。
「一言主さま、蘇我はどうすればよいでしょうか」
 稲目は、肝心な事項についてのみ重ねて問うた。
「んー? そうねえ……」
 笑いが納まった後、一言主は再び思案を巡らせる。
「……ああ。いいんじゃ、ない? 広庭の皇子って確か、『欽明』になる奴よ。それは、新たな飛鳥の時代の始まりだわ。『継体』は時代を繋ぎ、『欽明』は時代を拓く。……うん、それっていいかも」
 一言主は、闊達に託宣と思しきことを告げた。
 理解しがたいその発言の内容を、稲目は必死に頭の中で咀嚼する。
「……つまり、広庭の皇子につけと……?」
「そっから先は、自分で考えなさいよ。あたしは、託宣を下すだけよ。その後を決めるのは人間だわ」