「月傾く淡海」 最終章 そして、飛鳥へ
「男大弩の大王」となった深海に連れられて磐余玉穂宮に入った稲目は、始め深海のごく私的な近習として仕えていた。
稲目は真手王の死の際に約束した通り、自分の全てを捨てて深海に尽くした。その内に、自分でも意外だったのだが、官僚的な仕事にも才を発揮するようになった。
成長するに従い、稲目は周囲にその優秀さを認められ、公式な表向きの政にも参加を許されるようになった。
やがて、公私共に大王の最も信頼する側近の一人となった稲目は、正式に「大夫」という位を授かり、通称にしていた地名の「宗我」にちなんで「蘇我」という氏姓を与えられ、飛鳥の豊浦に屋敷を構えるまでになった。
今では、押しも押されぬ朝廷の第一人者の一人である。周囲には、異例の出世を遂げた稲目を妬む声も多かった。特に、その出自は色々と取り沙汰されたものである。
葛城氏の没落以後、稲目は思うところあって、自らが葛城の出身であることを一切周囲に漏らしていなかった物部や大伴は無論、大王でさえも、稲目の出自は知らなかったのである。ただ、「葦田葛城の乱」の際に功あって取り上げられ、以後重用されることになったが、それ以前は卑しい身分であった者、とされていただけだった。
進取の気風にも飛んでいた稲目は、飛鳥に進出していた渡来人たちを保護し、その進んだ技術を積極的に取り入れる事で、富も貯えていった。そんな事から、宮人の中には、稲目を渡来人の出だと噂する者も現れた。それらは根拠のない流言だったが、稲目は構わず放っておいた。むしろ、渡来人だと思われていたほうが、これ以上出自を詮索されることがなくてよいと思った。
「男大弩の大王」擁立の立役者となった物部の荒鹿火は、晩年になっても、筑紫地方で起こった大王の治世上最大の戦・「磐井の乱」を制圧するなど、武人としての生涯を貫いた。
大王は、稲目を信頼し、荒鹿火を尊重していた。二人はそれぞれ立場も年齢も違ったが、共に大王の側近として多くの政に携わり、長い年月に渡って宮内で意見を交わす事となった。
稲目と荒鹿火は、「男大弩の大王」の治世における両輪だったのだ。大王のために互いに協調するその姿を見て、二人をまるで年の離れた友であるかのように錯覚している者達も多かった。
--だが、それは、違う。
確かに晩年になるに従い、荒鹿火は稲目に対して一種の親しみを--長い苦難を共に乗り越えてきた、戦友に対する共感のような気持ちを抱くようにもなった。大王擁立期の混乱を知る、今では数少ない仲間、という意識も彼にはあっただろう。
だが稲目は、荒鹿火に対して心からの親しみを抱いたことは、一度もなかった。 確かに、その手腕には一目置いている。彼の立場も尊重してきた。表だって反目したこ
とは、これまでない。
--だが、稲目は……荒鹿火が何をしたか、知っているのだ。
「……荒鹿火どの。むごいことを言うようですが、恐らくお会いするのはこれが最後になるでしょう。我らが共にお仕えした男大弩の大王も先年病にてみまかられ……皇子が、その御位をお継ぎになられます。時代は次の者たちに移っていくのですよ。ですから……その前に、私はどうしても確かめておきたい」
稲目は静謐な眼差しで、荒鹿火の細い目を見つめた。
「若雀の大王を暗殺した者は……誰だったのですか」
落ち着いた声音で尋ねると、稲目は黙って荒鹿火の答えを待った。
「若雀の大王」暗殺--それは、「男大弩の大王」擁立にまつわる、全ての事柄が始まるきっかけとなった事件だった。
もし「若雀の大王」が急死しなければ、「男大弩の大王」は立たず、「葦田葛城の乱」など起こらず--稲目も、今ここにはいなかったはずだ。
様々な者たちを出会わせ、その運命をかき回し、栄光と滅びを与えた--その起点が、「若雀の大王」暗殺だったのだ。
表向きには、「若雀の大王」を個人的に恨んでいた平群の鮪という男の残党の仕業だったということで決着がつけられている。「男大弩の大王」即位後、その下手人は捕まり、すでに処刑にも処されていた。
--だが、恐らく、真実は違う。
あの事件は、時代の流れをここまで変えたのだ。平群の残党の仕業などであるはずがない。
真相は、きっと、もっと深いところにある。
そして、この男は間違いなくそれを知っているのだ。
真実を抱え、このまま一人で死んでいくなど許さない--。
「……わしだよ」
目を閉じて、荒鹿火は短く答えた。
「正確には、わしの配下がやった。しかし、大王暗殺の指示を下したのは、この荒鹿火だ」
荒鹿火は、弱々しいが、迷いのない口調で稲目に告げた。
「若雀の大王は……彼の持った血脈は、葛城の古い古い蔦に完全に絡めとられていた。葛城と大王家は、腐りゆく比翼だ。古から続くあの淀んだ流れを、誰かがどこがで断ち切らねば、この大和に未来はない。わしは、葛城の枯れた蔦に捕えられた王朝を廃し、新しい歴史をつくりたかった。……葛城は滅び、大王は入れ代わった。わしは、満足だよ……」
荒鹿火は、従容とした様子で淡々と告げた。
もはや死を目前にしたこの今、彼は、謀略と戦火に彩られてきた己の生涯に対し、一片の後いも抱いてはいないのだった。
「そうでしたか。やはり、貴公が……」
稲目は嘆息しながら低く呟いた。
--やはり、この男が、葛城を潰そうとしたのだ。
「……だが、一つだけ、心残りがある」
稲目の方を向いて、荒鹿火は搾り出すように言った。
「男大弩の大王は、後継に長子の勾の皇子を指名してみまかられた。……しかし、末子の広庭の皇子の側に、それを承服しかねる動きがある」
「……広庭の皇子は、皇后所生の嫡子にあたられますからね」
「しかし、まだ幼い。男大弩の大王は、ご自分が即位した時の混乱を鑑みられ、諍いを避けるために、あえて命あるうちに後継をご指名なさったのだ。わしは、その遺志をお守りして差し上げたい。……しかし、もうわしには残された時はない。……蘇我の大夫」
荒鹿火は床の中から、やせ細った右手を稲目に差し出した。
「……どうか、わしに代わって、勾の皇子をお守りしてくれ。頼む……!」
荒鹿火は、震える声で、必死に稲目に訴えた。
大和の猛将と恐れられた男の、これが、本当に最後の願いなのだ。
「……ええ。ええ、確かにお守りしましょう。我らの『皇子』を……」
稲目は荒鹿火の手を取り、力強く頷く。
稲目は、荒鹿火を安心させるように微笑んで見せた。だがその口元には何故か--憫笑に似た蔑みが浮かんでいた。
渋川の物部邸を退去した稲目は、豊浦の自邸に向けて馬を走らせながら、先日の磐余玉穂宮での出来事を思い出していた。
公務を終えた稲目は、宮の奥殿に呼び出されたのだ。
彼を呼び出したのは、広庭の皇子--男大弩の大王の第三皇子にして、唯一の皇后の嫡子だった。
上座についた皇子の前で、稲目は丁寧に拝礼した。
広庭の皇子は、たしか御年まだ十三歳--稲目の息子の馬子と同い年だったが、ひどく利発で、年に似合わぬ威厳を備えていた。
「--蘇我の大夫、稲目か。……面をあげよ」
厳重に人払いした室の中で、広庭の皇子は大王のように命じた。
作品名:「月傾く淡海」 最終章 そして、飛鳥へ 作家名:さくら