「月傾く淡海」 最終章 そして、飛鳥へ
いつものように鷹揚に言うと、一言主は焦れたように足をぶらつかせた。
「では……」
稲目が口を開きかけた時、彼の背に声をかける者があった。
「--父上」
稲目は驚いて振りかえる。
何時の間にか稲目の後ろには、息子の馬子が立っていた。
「馬子! ここに来てはいけないと、厳しく言っておいただろう!」
「すみません、父上。宮から急なお召しがあったので、僕が呼びに……でも……」
父に叱責された馬子は、素直に詫びる。
しかし馬子は何故か戸惑うように銀杏の木を見上げ、やがておずおずと稲目に尋ねた。
「父上、あの……あの、木の上にいる、不思議な方はどなたなのですか?」
「--なに!?」
稲目は驚愕して、我が子の顔を凝視した。
一言主の姿は、余人に見えるものではない。
その姿を目にできるのは、葛城の血を引く「長」のみ--そう、一言主から聞かされていた。
「……お前は、あたしが見えるの?」
不意に、枝の上から一言主が馬子に声をかけた。
「……はい」
馬子は上目遣いで、恐る恐る答える。
「そう。……じゃあ、お前に託宣をあげるわ。--こっちにおいで」
一言主は、馬子を手招きする。
馬子は困惑して、傍らの父の顔を見上げた。
「父上--」
「おそれることはない。あの方は、我が一族の守り神だ。とても、尊い御方だよ。そしてお前も、古い一族の血を引くものだ。……さあ、お行き」
稲目は、息子の背を押した。馬子は、ゆっくりとした足取りで、一言主の方に近づく。
眼下に立った馬子の姿を一瞥した一言主は、不意にその口元に鮮麗な笑みを浮かべた。
「--お前は……必ず、物部を討て」
「物部を……!?」
馬子は驚嘆したように、目を丸くする。
「お前は、成長したのち、必ず物部を討て。--今ここにあるお前は、ただの一個の存在ではない。お前の後ろには、背負った血の連鎖がある。物部を討つのは、お前の運命であり、一族の宿願であり……でもって、ちょっとは、あたしの恨みでもある」
一言主は重々しく厳然とした態度で告げていたが、最後になると、急に砕けた口調になった。
微苦笑を浮かべる彼女の姿を見たとき、稲目は長い間ずっと気にかかっていた事を聞いてみたくなった。
「一言主さま」
「なに」
「私は幼い頃、一人の葛城の姫と出会いました。彼女とは、わずかな間行動を共にしただけですが、あの姫との出会いが、私が私になる……『蘇我』が生まれる、全てのきっかけだったように思います。その姫は、倭文姫と言いました。--一言主さまは、倭文姫と何か関係がおありですか?」
稲目は、そわつく心を制しながら尋ねた。
倭文とは、瀬田の戦いで離れ離れになって以来、一度も会っていない。深海から、彼女はあの時の戦いで、戦死したのだと聞かされていた。
稲目は、あの姫が好きだった。放っておけない姉のような親しみを感じていた。
倭文姫とは、出会ったばかりだった。これからずっと一緒にいて、色んなことをしてあげられるのだと思っていた。
しかし、彼女は突然稲目の前から消えた。共にあるはずだった未来は、突如奪われたのである。
行き場を失った稲目は、その空洞を埋めるように深海に仕えた。そう、稲目にとって深海とは、倭文の代わりに過ぎなかったのである。
倭文は、葛城の姫だった。彼女もやはり、葛城を襲った敗北の渦の中で、運命を共にする存在だったのかもしれない。
だが……。
--だが一方で、稲目には、どうしてもあの姫が死んだとは思えなかった。
あの不思議な姫は、今もどこかで生きているような気がする。葛城の血が稲目の中で生きているように。あの姫も、きっと。
稲目は、枝の上の一言主を見上げた。
彼女は、倭文姫とは、まったく似ていない。
年も、姿も、髪の色も、口調も何もかも--けれど、それでもどこか、稲目の中では、一言主と倭文の印象が重なるのだ。
「--お前には、教えてあげない」
しばらくの沈黙の後、一言主はわざと意地悪そうに言った。
「お前は、あたしを継ぐ者ではないから。あたしの常若の呪いは遅い。恐らく、次の後継者が現れるのは、あと三、四世代後のこと……」
独言のように呟くと、一言主はにっと笑って唇の両端をつり上げた。
「……でも、稲目。その子、お前の少年の頃にそっくりね」
再び、突風が吹いた。稲目も馬子も、思わず目を閉じる。
次に瞳を開けた時--気紛れな一言主は、そこから姿を消していた。
「……父上、今のは……」
「あの方は、葛城の一言主。葛城の一族を見守る、託宣の神だ」
「葛城?」
「……そうだな。お前にも、話してあげよう。けっして滅びない、誇り高い古い一族のことを……」
馬子を伴いながら、稲目は屋敷へ向かって歩を進めた。
(この子には、一言主さまが見えた……。では、息子たちの中で、『蘇我』を継ぐのは、この子なのだ)
稲目は歩きながら、心の中で、一族の次の長を馬子と決めた。
屋敷へ戻ったらすぐにも支度をし、宮へ伺わなくてはならない。--広庭の皇子に、決意のほどを伝えるために。
動乱が始まる。--また、新しい時代を迎える為の動乱が始まるのだ。
昔とは違い、今は、政治も文化も人もみな、全てが飛鳥へと向かって集まりつつあった。
この飛鳥を中心とした、今までにない、新しい時代が始まるだろう。そしてその誕生に行き合うのは、この自分と……自分のあとを継ぐ「蘇我馬子」なのだ。
この戦を勝ち抜き、蘇我は栄光の時を迎えることが出来るだろうか。--いや、きっと勝って見せる。
そして、永代に続く、「蘇我」の繁栄を築いて見せよう。
ああ、そして、その「蘇我」の栄華の中には。
新しい時代の覇者である「蘇我」の中には、古い古い「葛城」の血が息づいているのだ。
葛城は、滅んでいない。
何度謀略を仕掛けられ、何度敗北を迎えようとも、決して葛城は滅ぶことはない。
誇り高い「葛城」の血脈は「蘇我」へと形を変え、これからどこまでも続いていくのだ。
そして、きっと、次の時代の華となるだろう。
【完】
作品名:「月傾く淡海」 最終章 そして、飛鳥へ 作家名:さくら