「月傾く淡海」 最終章 そして、飛鳥へ
桜が蕾を膨らませ始める季節になった。
朝晩は、まだ時折冷たい風も吹く。しかし、人々の心は既に春を迎える喜びに満ち、寒く厳しい冬に耐えてきた大和盆地のあちこちでは、様々な生き物が活気を取り戻しつつあった。
稲目は一人、摂津の渋川を目指して馬を駆っていた。
供人をつれず、一人だけで出かけるのは、昨今では珍しい。余計なことに煩わされず、存外気楽でいいものだ……とは思ったが、やはり五十歳を越えた壮年の身には、馬での長距離の移動は予想以上にこたえる。
だがそれでも、稲目は家人の反対を押し切り、たった一人で出発した。
--今あの男に会わなければ、もう二度と会う機会はないような気がする。そんな旅立ちの時に、余人を伴っていく気になどは到底なれなかった。
朝のうちに飛鳥の豊浦にある自邸を出発した稲目だったが、目的である渋川の物部邸についた時には、すでに昼過ぎを回っていた。
門の所で馬を下り、轡を厩部の男に預けていた稲目は、そこで思わぬ二人連れに遭遇した。
「……これは、蘇我の大夫どの」
嫡子の守屋を連れた屋敷の主・物部の尾輿(おこし)は、稲目の姿を見かけると、朗らかに声をかけた。
「貴公がこの渋川までおいでになるとは、珍しい。父を見舞いに来て下さったのかな?」
「荒鹿火どのの病が思わしくないとお聞きしたのだが……お加減は、いかがか?」
「ああ。確かにここ数日、危なかったのですがな。気候が良くなったせいでしょう。今日あたりは、持ち直しておりますよ」
実父が危篤だったというのに、尾輿は平然と答えた。
「--ご子息と……どちらかへ、お出かけで?」
病の父を置いて外出しようとしている尾輿に、稲目はやや非難めいた眼差しを向けた。それに気付き、尾輿はばつが悪そうに苦笑する。
「前々からの約束がありましたのでな。反故にするわけにもまいりますまい。これでも大連ゆえ、色々と付き合いもございます」
四十になる尾輿は、父・荒鹿火から族長の座を引き継いでいたが、同時に宮からも大連の位も授かっていた。
しかし尾輿は、典型的な武人であった荒鹿火とは違い、むしろ政治家としての色のほうが強い。
彼はその生まれ持った資質と手腕を存分に振るい、荒鹿火の隠居後も、宮内において物部が第一の権勢を保つことに成功していた。
「父も、もう八十に近い。随分長いこと生きました。病といっても、自然の成りゆき。あの人は、ご自分の人生に悔いはありますまいよ……。しかし、旧友である貴公が来て下さったとなれば、喜びましょう。ごゆるりと、昔語りなどなさってくだされ」
そういうと、尾輿は軽く微笑んで門を後にした。
「では、大夫どの、失礼いたします」
稲目に丁寧に礼をすると、守屋も父の後に従う。
たしか、彼は今年十八になる青年である。一目見ただけだが、その立ち居振る舞いには隙がなかった。
荒鹿火の武人の血は、子の尾輿よりも、むしろ孫の守屋のほうに濃く受け継がれているのかもしれない。遠ざかる親子を見送りながら、稲目はそう思った。
……やがて屋敷の使用人に案内され、稲目は荒鹿火が寝む別棟へと向かった。
簾をくぐって室の中へ入ると、そこには静かに伏せている荒鹿火の姿がある。
稲目が荒鹿火の傍らに座るのを見届けると、気を利かせたのか、使用人はすぐに退出した。
二人きりとなった静かな室の中で、稲目は目を閉じたままの荒鹿火の姿を見つめる。
年老いた荒鹿火は、小さくやせ細っていた。解いた髪にも既に黒いものは混じっておらず、その顔には幾筋もの皺が走っている。
そこには、かつて豊葦原に名を轟かせた大将軍の面影はなかった。
病が重いと聞いていたので、もっと苦悶に満ちた表情をしているかと思ったのだが、荒鹿火は存外穏やかに眠っていた。
少し安堵し、稲目はそっと声をかける。
「……荒鹿火どの」
彼が目を覚まさなければ、このまま退出しようと思っていた。--だが少しして、荒鹿火はゆっくりと薄目を開ける。
「……おお。稲目どの」
稲目の姿を確認して、荒鹿火は嬉しそうに薄く微笑んだ。その青白い頬に、ほんの少し生気が戻る。
「見舞いに来てくだされたか。ありがたい」
「危篤ときいて、飛んできましたぞ。しかし、お元気なご様子。安心しました」
「……ふん。わしがまだくたばらぬと知って、残念がっておる者ばかりじゃろう」
荒鹿火は気丈に憎まれ口を叩いた。
「しかし、かつては大和にこの将ありと謡われたわしも、落ちぶれたものよ。他人はおろか、我が子でさえ、様子を伺いにも来ぬ」
「尾輿どのは、お忙しいのですよ。立派に大連の職を努めておられるではないですか」
稲目は、先刻遭遇した尾輿たちの姿を思いおこしながら荒鹿火をなだめた。
「それに、荒鹿火どのの武勇を忘れられる者などおりませぬよ。この私も、よく眼裏に焼き付いております。近くで見せていただいておりますからな」
口では世辞を言っていたが、稲目は心の中で荒鹿火に対して哀れを催した。
あれほどの武勇と権勢を誇った男でも、最後はやはり、一人で寂しく死んで行かねばならないのか。
だとすれば、虚しいものだ。今この世を生きている者たちも皆……。
「……それにしても。貴公とは、不思議な縁でござったなあ」
天井を見上げながら、荒鹿火はしみじみと呟いた。
「戦の中でたまたま拾われた子供と、その後何十年にも渡って政を共にすることになるとは。あの時のわしにも予測できなんだ」
「……それなら、私の方こそですよ。恐ろしい大将軍だったあなたと、こうして昔語りできる日がこようとは……」
稲目は可笑しそうに苦笑した。
本当に、人の運命とは分からぬものだ。
--今となっては、何もかもが懐かしい。
後に「葦田葛城の乱」と呼ばれた畿内の大戦を制した「男大弩の大王」は、大和入りした後、磐余玉穂宮を正式な在居と定め、そこで終生政を行なった。
あの乱の後、葛城氏は残っていた全ての所領を召し上げられた。一族は急速に衰退し、やがて没落した。
かろうじて葛城との連座を免れた大伴金村は、一時その権勢の大半を失ったが、それでもしぶとく宮内で生き残り、時の流れの中で少しずつ己の発言権を回復していった。
しかし、「男大弩の大王」の治世の中盤に起こった外交政策の失敗--特に、半島にある任那国の百済への割譲事件を機に金村は政局を追われ、完全に失脚してその後はひっそりと隠居することになった。
「男大弩の大王」は、その政権を盤石なものにするため、彼に協力する有力豪族の姫を多く召し入れて妃とした。その中でも、尾張氏の姫・目子媛との間には、勾の皇子と高田の皇子という二人の兄弟をもうけた。
また大王は、後に諸臣の勧めを受け入れ、「若雀の大王」の異母妹にあたる、手白香皇女を皇后に迎えた。
手白香皇女は、二十四代目の大王・「億計の大王」の皇女である。それ故この婚姻には、一族の傍系であり、ある種の余所者であった「男大弩の大王」が「去穂別の大王」から続く前王統の血脈との融合を果たすという思惑が絡んでいた。やがて二人の間には、広庭(ひろば)の皇子という三番目の皇子が生まれた。
朝晩は、まだ時折冷たい風も吹く。しかし、人々の心は既に春を迎える喜びに満ち、寒く厳しい冬に耐えてきた大和盆地のあちこちでは、様々な生き物が活気を取り戻しつつあった。
稲目は一人、摂津の渋川を目指して馬を駆っていた。
供人をつれず、一人だけで出かけるのは、昨今では珍しい。余計なことに煩わされず、存外気楽でいいものだ……とは思ったが、やはり五十歳を越えた壮年の身には、馬での長距離の移動は予想以上にこたえる。
だがそれでも、稲目は家人の反対を押し切り、たった一人で出発した。
--今あの男に会わなければ、もう二度と会う機会はないような気がする。そんな旅立ちの時に、余人を伴っていく気になどは到底なれなかった。
朝のうちに飛鳥の豊浦にある自邸を出発した稲目だったが、目的である渋川の物部邸についた時には、すでに昼過ぎを回っていた。
門の所で馬を下り、轡を厩部の男に預けていた稲目は、そこで思わぬ二人連れに遭遇した。
「……これは、蘇我の大夫どの」
嫡子の守屋を連れた屋敷の主・物部の尾輿(おこし)は、稲目の姿を見かけると、朗らかに声をかけた。
「貴公がこの渋川までおいでになるとは、珍しい。父を見舞いに来て下さったのかな?」
「荒鹿火どのの病が思わしくないとお聞きしたのだが……お加減は、いかがか?」
「ああ。確かにここ数日、危なかったのですがな。気候が良くなったせいでしょう。今日あたりは、持ち直しておりますよ」
実父が危篤だったというのに、尾輿は平然と答えた。
「--ご子息と……どちらかへ、お出かけで?」
病の父を置いて外出しようとしている尾輿に、稲目はやや非難めいた眼差しを向けた。それに気付き、尾輿はばつが悪そうに苦笑する。
「前々からの約束がありましたのでな。反故にするわけにもまいりますまい。これでも大連ゆえ、色々と付き合いもございます」
四十になる尾輿は、父・荒鹿火から族長の座を引き継いでいたが、同時に宮からも大連の位も授かっていた。
しかし尾輿は、典型的な武人であった荒鹿火とは違い、むしろ政治家としての色のほうが強い。
彼はその生まれ持った資質と手腕を存分に振るい、荒鹿火の隠居後も、宮内において物部が第一の権勢を保つことに成功していた。
「父も、もう八十に近い。随分長いこと生きました。病といっても、自然の成りゆき。あの人は、ご自分の人生に悔いはありますまいよ……。しかし、旧友である貴公が来て下さったとなれば、喜びましょう。ごゆるりと、昔語りなどなさってくだされ」
そういうと、尾輿は軽く微笑んで門を後にした。
「では、大夫どの、失礼いたします」
稲目に丁寧に礼をすると、守屋も父の後に従う。
たしか、彼は今年十八になる青年である。一目見ただけだが、その立ち居振る舞いには隙がなかった。
荒鹿火の武人の血は、子の尾輿よりも、むしろ孫の守屋のほうに濃く受け継がれているのかもしれない。遠ざかる親子を見送りながら、稲目はそう思った。
……やがて屋敷の使用人に案内され、稲目は荒鹿火が寝む別棟へと向かった。
簾をくぐって室の中へ入ると、そこには静かに伏せている荒鹿火の姿がある。
稲目が荒鹿火の傍らに座るのを見届けると、気を利かせたのか、使用人はすぐに退出した。
二人きりとなった静かな室の中で、稲目は目を閉じたままの荒鹿火の姿を見つめる。
年老いた荒鹿火は、小さくやせ細っていた。解いた髪にも既に黒いものは混じっておらず、その顔には幾筋もの皺が走っている。
そこには、かつて豊葦原に名を轟かせた大将軍の面影はなかった。
病が重いと聞いていたので、もっと苦悶に満ちた表情をしているかと思ったのだが、荒鹿火は存外穏やかに眠っていた。
少し安堵し、稲目はそっと声をかける。
「……荒鹿火どの」
彼が目を覚まさなければ、このまま退出しようと思っていた。--だが少しして、荒鹿火はゆっくりと薄目を開ける。
「……おお。稲目どの」
稲目の姿を確認して、荒鹿火は嬉しそうに薄く微笑んだ。その青白い頬に、ほんの少し生気が戻る。
「見舞いに来てくだされたか。ありがたい」
「危篤ときいて、飛んできましたぞ。しかし、お元気なご様子。安心しました」
「……ふん。わしがまだくたばらぬと知って、残念がっておる者ばかりじゃろう」
荒鹿火は気丈に憎まれ口を叩いた。
「しかし、かつては大和にこの将ありと謡われたわしも、落ちぶれたものよ。他人はおろか、我が子でさえ、様子を伺いにも来ぬ」
「尾輿どのは、お忙しいのですよ。立派に大連の職を努めておられるではないですか」
稲目は、先刻遭遇した尾輿たちの姿を思いおこしながら荒鹿火をなだめた。
「それに、荒鹿火どのの武勇を忘れられる者などおりませぬよ。この私も、よく眼裏に焼き付いております。近くで見せていただいておりますからな」
口では世辞を言っていたが、稲目は心の中で荒鹿火に対して哀れを催した。
あれほどの武勇と権勢を誇った男でも、最後はやはり、一人で寂しく死んで行かねばならないのか。
だとすれば、虚しいものだ。今この世を生きている者たちも皆……。
「……それにしても。貴公とは、不思議な縁でござったなあ」
天井を見上げながら、荒鹿火はしみじみと呟いた。
「戦の中でたまたま拾われた子供と、その後何十年にも渡って政を共にすることになるとは。あの時のわしにも予測できなんだ」
「……それなら、私の方こそですよ。恐ろしい大将軍だったあなたと、こうして昔語りできる日がこようとは……」
稲目は可笑しそうに苦笑した。
本当に、人の運命とは分からぬものだ。
--今となっては、何もかもが懐かしい。
後に「葦田葛城の乱」と呼ばれた畿内の大戦を制した「男大弩の大王」は、大和入りした後、磐余玉穂宮を正式な在居と定め、そこで終生政を行なった。
あの乱の後、葛城氏は残っていた全ての所領を召し上げられた。一族は急速に衰退し、やがて没落した。
かろうじて葛城との連座を免れた大伴金村は、一時その権勢の大半を失ったが、それでもしぶとく宮内で生き残り、時の流れの中で少しずつ己の発言権を回復していった。
しかし、「男大弩の大王」の治世の中盤に起こった外交政策の失敗--特に、半島にある任那国の百済への割譲事件を機に金村は政局を追われ、完全に失脚してその後はひっそりと隠居することになった。
「男大弩の大王」は、その政権を盤石なものにするため、彼に協力する有力豪族の姫を多く召し入れて妃とした。その中でも、尾張氏の姫・目子媛との間には、勾の皇子と高田の皇子という二人の兄弟をもうけた。
また大王は、後に諸臣の勧めを受け入れ、「若雀の大王」の異母妹にあたる、手白香皇女を皇后に迎えた。
手白香皇女は、二十四代目の大王・「億計の大王」の皇女である。それ故この婚姻には、一族の傍系であり、ある種の余所者であった「男大弩の大王」が「去穂別の大王」から続く前王統の血脈との融合を果たすという思惑が絡んでいた。やがて二人の間には、広庭(ひろば)の皇子という三番目の皇子が生まれた。
作品名:「月傾く淡海」 最終章 そして、飛鳥へ 作家名:さくら