「山」 にまつわる小品集 その壱
鈴の音 (サイコサスペンス)
硫黄岳から横岳へ向かうナイフリッジを過ぎ、岩峰を3点支持で慎重にまわり込む。西側の深く落ち込んだ崖はロッククライマーに人気の高い、大同心である。
東の風が、雲を伴って吹き上がってきた。風の当たらない岩陰を選んでザックを下ろし、ポリタンと行動食を取り出した。ザックの上に腰かけてポリタンの水を口に含み、羊羹の包装を破ってかじりつく。行動食に羊羹を選ぶのは詩織の嗜好だ。
ちょうど1年前、詩織を伴って同じコースを歩いた。黄葉のシーズンである。
詩織が山岳会に入ってきたのは3年前だったろうか。特に目立つこともなく、いつも静かにほほ笑んでいる、といった感じだった。しかし、負けん気が強くて、時間があれば体力作りに励んでいたようだ。あるいは誰かを誘っては山へ出かけていた。
僕も誘われて何度か一緒に出かけているうちに、彼女の芯の強さと優しさに気付き、心惹かれるようになった。
いつしか関係は深まっていき、お互いに結婚を考えるようになっていった。それはまだ、ふたりだけの秘め事であったが。
詩織はザックにいつも鈴を付けていた。チリーン と優しい音を奏でる南部鉄でできたクマ避けの鈴だ。
「いつクマと出くわすか分からないから、鈴は必携よ」
どの山へ行っても、その鈴音は我々を優しく包んでくれた。
その日・・・
「ねぇ、康樹、私たちこのままで大丈夫?」
「なんのこと?」
「私、聞いたの。康樹に縁談が持ち上がってるってこと。会社の社長さんの娘さんで、同じ部署で働いてるんでしょ」
「そっか、参ったな。でも断るつもりだよ」
「・・・・・・」
と話をしたのは、ここで休んでいる時だ。
僕は残りの行動食とポリタンをしまい、再び歩き始めた。
なぜ詩織は縁談のことを知ったのだろう。それを知っているのは身内の者だけである、とその時は不思議に思ったが聞くことはしなかった。
ふたりとも黙ったまま岩稜を歩いているとき、前を行く詩織が急に振り返って言った。
「私、康樹が幸せになってくれるんだったらそれでいいの」
僕は詩織の方へ手を伸ばした。
なぜそんな行動をとったのか分からない。その時詩織はバランスを崩した。
チリ、チリ、チリ、リ――ン と鈴はけたたましい音を上げて遠ざかっていった。
作品名:「山」 にまつわる小品集 その壱 作家名:健忘真実