「山」 にまつわる小品集 その壱
入場ゲートで係員に呼びとめられた。
「あっ、ちょっとあんた、待って」
びっくりして振り返った。
「あんた、ゴリラのさくらの画、描いてた人とちゃう?」
「そうですけど」
「ちょっと中に入ってきてくれへん」
と言いつつ、どこかへ電話をかけている。
「はい、はい、ほならここで待っとってもらいまっさかい、早よ来てください」
しばらく狭い部屋の中で待たされた。係員はお茶をポットから入れて勧めてくれる。
中年らしき男性が駆け足でやって来るのが見えた。
「やぁ、すんません、お待たせしました。ぼく、ゴリラの飼育担当の中山いいます」
はぁ、と怪訝な顔で中山を見つめた。
「あんたさん、さくらの画を描いてはったんですよね」
「はい、すみませんでした。紙飛行機にして投げ入れてました。アカンことですよね」
「はい、いえ、そういうこととちごうて・・・実は今、さくら病気ですねん。それが・・・なんちゅうたらええんか・・・恋わずらいですか」
「恋わずらい!?」
「3か月前から食欲なくしよって。好物のリンゴやバナナもちょっとしか食べよらんのです。ほんで部屋を移して寝床を掃除してたら・・・見てください、これ」
手に持っていた紙を広げて見せた。いろんな色のシミが付いてはいたが、まぎれもなく美優が描いたさくらの画と自画像だった。
「よかったら一緒に来てもらえませんか」
美優は中山に付いて行った。
「さくらは体は大きいて一見怖いですけど、ま、ゴリラちゅうもんは、特にメスですけど、おとなしいて優しい動物なんですよ。人間に近こうて、DNAはほとんど一致してますしね。むしろ人間より平和的です」
寝室で袋を頭からかぶって寝ていたさくらは、動かない。
「さくら・・さぁ声かけたってください」
ドアを入ると格子があった。そこから さくら、と呼び掛けた。
するとさくらは袋を払いのけると美優をしばらく見つめ、のっそりと立ち上がると長い腕を地につけてうろつき、バナナを食べ始めた。
「やっぱり、さ、もよろしいからこちらに」
「学生さんですか?」
「受験に失敗して、今はまだ・・・どうするかまだ分からないんです」
「そうですか。もしよかったら飼育員として働いてみませんか。学校で生態学や動物行動学を勉強してきた人もいてますが、先輩から教わりながら覚えていく人も多いですよ。何より動物が好きな人。それ以上に大事なんは、動物から好かれることですわ。ただし、病気やお産の時は不眠不休になりますがね」
現在、美優とさくらはまるで恋人同士のように、溌溂として触れ合っている。
2011.5.16
作品名:「山」 にまつわる小品集 その壱 作家名:健忘真実