神社奇譚 2-1 周り講
4
私は軽ワゴンでふたりの名士の家を廻って<周り講>を預けてもらった。
山上の家にあった「稲荷講」はタテ40cmヨコ100cm高さ40cm程の
日に焼けた木箱に納められていた。
川淵家にあった「地鎮講」は更に大きく、ちょっとした仏壇などより大きく
黒く漆が塗ってある木箱であった。こっちの重量は、かなり重くて
結局私ひとりでは持ち上がらず手伝ってもらったほどで。
それが年末の話で。
それから年内は本業も、神社の手伝いも忙しくなるばかり。
しかし、宮司から特命を受けた私は
他の役員たちからは、この忙しいときに「あそんでやがる!」と云われてもだ。
私は「稲荷講」と「地鎮講」の中身についての目録作りに追われた。
まず「稲荷講」の蓋を開ければ、蓋の裏には“明治四〇年初午“と墨で
書かれておりこの箱が平成も23年昭和で云えば86年、大正以前となれば
それだけで100年以上のものである。当事の講のメンバーであったのであろう方々の名前が書き添えられている。
中にはコンパクトに、しかし、しっかりとした出来の社があって
お稲荷様らしく、石を彫った狐の置物がある。
勿論古びたものばかりであるが、お札だけは新しいものに替えられている。
そして夥しい数の古いものから新しいノートまで、書類が、
そして時々に撮ったのであろう数々の写真の収められたアルバムなどなど。
「地鎮講」は漆の塗られた黒光りする扉を開くと祭具の数々が納められ
そしてやはり夥しい数の書類。残っているものの最古のものでも寛政年間のものがあった。
内容について素人の私が分からないものばかりだが、読めるところだけを
斜めに読む限りでも、やはり「鎌倉時代の昔から」
「この郷を領く豪のもの」「知略戦略に長けるもの」
「優勢なるウミノコ八百代継の計」などの文字が見える。
その一点一点を丁寧にデジカメで写真を撮り、
スキャナーでデジタルデータとして
残そうと必死になっていた。
古い和紙に墨で書かれたものを崩れないように
丁寧に伸ばしてデジカメで写真に撮り、スキャナーで撮った。
正月明けからは、市役所の文化課だの、市の教育委員会だの駆け回った。
これは宮司に言われたからではない。
なにかにとり憑かれたように、私はこれ等の<周り講>を残すべきものだ!
何とかせねば!そう思いたってのことだった。
ところが市役所に行っても教育委員会にいっても相手にもされず
地元の博物館とか公民館とか、必死になって廻ったんだが
折からの不況のせいもあって、役所も「予算が無い」の一点張りだ。
「予算が無い」から「引き取れない」なら
郷土の地誌を編纂することを事業の柱のひとつにしている教育委員会は
いったい何の為に存在しているのか?!
「それはイチ地域のもので、この地域全体を現わすものではない」なら
戦後ベビーブームと共に人口が増加したこの地の、
どこにそういうモノがあるというのだ?!
「これは民間信仰のものであるから」とか
「いわばこれはハウスロウだよ」とか
云われながらも、私は必死になっていた。
なぜなら新年を開けて1月14日には
左義長祭<サギチョウサイ>であるのだから。
このままでは、この偉大な記録が灰塵に帰してしまう。
唯一、私の話を聴いてくれたのは、個人の旧家を改造して
「郷土歴史館」として公開している旧家の生まれのご婦人であった。
彼女自身も旧家の佇まいを残そうと、いろいろ運動をした過去があるらしく丁寧に話を聞いてくれた。そして、こういう古文書の分析というものが、恐ろしく手間のかかるものであることを教えてくれた。
勿論、旧仮名遣いとか、古い時代の文字であるとか
それ以上に、この地方独特の古い方言であるとか。
これによってはYESの表記の理解もNOになるものも多いという。
そんな奇々怪々なものなんですのよ、と。
結局は、私の用意したデジタルデータには興味があるが
<周り講>それ自体については、あまりの物の大きさから
展示も出来ないし、預かる事もできない、と断られた。
データを納めたDVDを手に取りながら
失望の中、私はひとり社務所でふたつの<周り講>を見ていた。
明日になれば、左義長祭の<どんどやき>で焼かれてしまう。
偉大なる祖先の残した偉大な発見と発明が灰に戻る。
そう思うと、涙が出てきた。
作品名:神社奇譚 2-1 周り講 作家名:平岩隆