長兄の重荷
玄関を開けると、どことなくかび臭かった。締め切っていることが多いせいだろう。母が生きていた頃には、いつも戸を開けて風を通しておいたので、かび臭くなることがなかった。長兄嫁には、そうした配慮が少し足りないのであろう。
長兄が出迎え、家に上がるように言った。
仏壇に線香を上げた。その後、仏壇の周りを飾る父と母の写真を見た。どれも、みな懐かしい顔である。過ぎ去った時の長さをあらためて感じた。
家の中を見回した。古い柱時計も、縁側も、何もかも昔のままであった。長兄は過去を切り捨てることはできなかったのであろう。
「これから墓参りに行きたい」と言うと、
長兄嫁が驚いたように、「先にご飯を食べたら?」と言った。
「ご飯は後でいいよ。先に墓参りしたい。連れて行ってくれ」と長兄に頼むと、
「分かった」と淡々と答えた。
「花を持って行きたいけど」と長兄嫁に言うと、家の近くにある畑に行って花を切ってきてくれた。
墓は隣の村の山の麓にある。実家から車で二十分ほど離れたところだ。明治時代にはそこに家があり、裏庭に位置するところに墓があった。祖先は隣村に移り住んだが、墓は移さず、そのまま残した。
長兄が運転する車で向かった。
遠い昔、夏のお盆の頃、提灯をつけて父と母と弟の四人で墓参りに行ったことを思い出した。時間はかかったが、楽しい小さな旅だった。懐かしさに胸が締め付けられたが、同時に気持ちのどこかで冷めているのも事実だった。もう五十近い年齢になっている。幼い頃は、あまりにも遠い昔のことになっていた。
車は隣村に入った。行き交う人はいない。村の風景は昔と変わっていない。まるで時間が止まっていたような錯覚を覚える。
実に静かだ。まるで死んでいるような静けさだ。幼い頃は賑わいがあった。村のあちこちで子供たちの声がした。墓参りをするお盆の頃は、提灯を下げた人とあちこちで行き交った。夜になっても、子供たちの歓声や大人たちの話し声が聞こえた。今はまるで死んだような夜の静けさに村は包まれている。ただ、街灯が煌々と道を照らしているだけである。
「近くにコンビニはないのか?」と聞くと、
長兄は、「どうして?」と聞き返した。
「アイスを買いたい。ほら、お袋が、よく墓参りのとき、『サトシが好きだった』と言って買ったじゃないか? 覚えていない?」
五人兄弟だった。一番目が長兄のオサム、二番目が次兄のタカオ、真ん中がサトシ、四番目が自分、一番下がサダオである。
サトシは長兄と二人で川に遊びに行ったとき、長兄が少し目を離した隙に、川に入り溺れてしまった。サトシの写真で見たことがあった。大人しそうな顔をしていた。母の自慢の子だった。
「そうかな?」と長兄は言った後、「少し先に行けば、コンビニがある」と付け加えた。
長兄がコンビニの前で車を止めた。
コンビニに入ってピンク色のアイスキャンディの『桃太郎』を買って戻った。
車に乗り込むと、長兄はすぐに車を動かした。
「俺は、サトシのことは知らないけど、お袋が、『サトシはいい子だった』とよく言っていた。お袋が、『何か欲しいものはあるか? 』と聞いたら、サトシは貧しいのを知っていたのか、本当はアイスキャンディが大好きだったのに、『何もいらない』と答えたという。母親は夏になると、よく、サトシの話をしたよ。墓参りのときには、必ずアイスキャンディを買って、墓に供えていた」
長兄は黙って聞いていた。
車が墓につながる山道の入り口に着くと、長兄は車を止めた。
車を降りて坂道を登った。長兄も後から付いてきた。
五分ほど登るところに墓地がある。墓は新しく建て替えられていた。
「ずいぶんと立派になったな」とが言うと、
「墓は建て替えた。親戚に頼んだから安く百万で出来上がった。本当は三百万かかる」と長兄が自慢したが、昔の方が良かったと思った。新しいのは、過去が切り捨てられたようで、どことなく味気ない感じがしたからである。
花を供え、ろうそくに火をつけた。手を合わせ、長く墓参りしなかったことをわびた。
振り向くと、離れてタバコを吸っていた長兄が近づいた。そのとき、長兄が意外なほど小さいことに気づいた。年をとったせいのなのだろうか。それとも、昔からこうだったのか。考えてみれば、今まで並んで歩いたことなどなかったので、気づかなかったのかもしれない。
何とも情けなそうな顔で見る。
「小さくなったな」と言うと、
「昔から小さかったよ」と長兄は不器用な笑みを浮かべた。
長兄は中学しか出ていない。小さいうえに喋るのが下手である。そういったところから、次兄も長兄嫁もときどき見下したように、「馬鹿な人だ」と言う。親戚の中にもそんなことを言う者がいる。
同じ血のつながった長兄に対して、馬鹿だという陰口を聞く度に複雑な心境になったのを覚えている。もう少し慮った言い方があるだろうと思い、同時にかわいそうだとも思った。ひょっとしたら自分にもあてはまるかもしれないという恐怖に近い思いも幾分あった。だからといって、庇おうともしなかった。また、あるとき、こうも考えていた。仮に頭が悪くて、口下手であっても、悪いことをしているわけではない。むしろまじめにコツコツと働いてきた。それを考えれば、侮蔑よりも敬意を表するに値するのではないかと。だが、そんな思いを抱いていたことを一度も話したことがない。
墓参りを終えると、再び車に乗った。
長兄は車を運転しながら、またタバコに火をつけた。来るときも何本も吸っていた。帰りも絶え間なく吸っている。まるで一時でもタバコを離せないようだ。
「タバコを止めろとは言わないが、少しは控えた方がいいぞ。そんなに吸っていると体に毒だぞ。親父がどんなに苦しんだか、見ているだろ? 看病したとき、見ている方が切なかった。あんなのは、もう二度と見たくないな。肺がんになったら、死ぬ直前まで見舞いに来ないぞ。それでいいか?」
長兄は父親に似ていた。前かがみで歩く姿。無学なところ。朴訥なところ。タバコが好きなところ。その父親は肺がんのために死んだ。自分が大学生のときである。
「仕方ないさ。病気は選べない」と長兄は笑った。
「自分の体は自分のものだ。誰のものでもない。自分で大切にしなくちゃ。分かる? そんなにタバコを吸っていると、肺がんになるぞ。仮にならなくとも、長生きなんか、できないぞ?」とまるで子供を諭すように言った。
長兄は黙った。
「長生きしたくないのか?」となおも問うと、
しばらくして、長兄は、「もう、十分、生きたよ」と答えた。
「十分に生きた」という言葉が矢のように刺さった。予想外な言い方にとまどいもした。しばらくして、無学と思っていた兄がまるで哲学者か宗教家かのように達観にしているように思えて驚いた。
長兄は貧しい家の長男として生まれてきたばかりに、中学を出ると、すぐに近所の町工場に働きに出され、一家を支える運命を背負わされた。家というものに縛られ働いた。父と母が死んだ後も田畑と墓を守ってきた。一度も実家から離れたことがない。まるで籠の中の鳥のように生きてきた。そんな長兄の半生を思ったとき、何か胸が掻き毟られるような切なさを感じた。