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長兄の重荷

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長兄の横顔を見た。さばさばとした顔をしていた。自分の役割も終わりに近づいているのを悟っているかのような顔である。
「十分生きた……? 本当に? まだ、まだ、死ぬのは早いだろ?」と笑った。
その強張った笑顔を見たなら、誰もが不自然に見えるだろう。
「もう五十八歳だ。親父が死んだ歳を追い越した。だから、いつ死んでもおかしくない」と笑った。
いつ死んでもおかしくない。やはり人生を諦めている。長兄の人生は何であったのか? 何の意味があったのか? この百戸足らずの小さな集落に生まれ、そして死ぬ。集落は高齢者ばかりで、やがて誰もいなくなるだろう。やがて、ここに生きてきた痕跡さえ消えていく。まるで初めからなかったかのように。そこにどんな意味があるのだろう。
「もう十分か……、じゃ、死ぬだけだな」
「そうだよ」と応え、またタバコに火をつけた。

二十五年前の夏のことを思い出した。――母の葬儀の後だ。長兄、次兄、そして自分の三人で酒を飲んだときのことである。突然、「頼みがある」と長兄が言った。
「何だ?」と聞くと、
「俺が死んだら、葬式を出してくれ」と答えた。
 あまりの突飛な話にびっくりしたが、酒のせいでおかしなことを言っているんだと思い聞き流していた。
同じように聞いていた次兄が、「何を馬鹿なことを言っているんだよ。物事には順番があるんだ。あんたの葬式は俺が出すんだよ。嫁さんをもらったら、その嫁さんがあんたの葬式を出す」
極めて常識的なことを聞き分けのない子供を諭すような次兄の言い方に思わず苦笑した。
長兄の顔を見た。酒に飲まれた感じもしなかったし、冗談を言っているようにも見えず、その真意をはかりかねた。
「昔、俺はあまり家の仕事を手伝わなかったけど、お前はよく手伝ったよな」と言った。
田畑は母親が中心だった。長兄も次兄も弟もあまり手伝わなかった。長兄には工場の仕事があった。次兄は高校のときからアルバイトに精を出していた。弟は部活にかこつけて家にはいなかった。学校以外は、外に出なかった自分だけが手伝わされた。
「家の手伝いをしたお前に、この家を継いで欲しいんだ」
それが言いたかったのかと合点した。――
二十五年前は若かった。家のことを考える気もなかった。長兄も若かった。さほど、深い意味もなく、酔ったついでに言ってみただけだろうと聞き流した。だが、あらためて、当時のことを思い直すと、そうではなかった。長兄はすでに自分が背負ってきた重荷をどうするかを考えていたのだ。

夕食を終えた後、長兄と二人で酒を飲んだ。
「何が楽しみで生きている?」と長兄に聞くと、何も答えなかった。
代わりに長兄嫁が、「この人は、何も変らないことが良いことなの。決まった時間に働き行って、決まった時間に食べて、決まった時間に眠る。何も変らない生活の中に、この人の幸せがあるの」と笑った。
酒が進み、だいぶ酔っぱらったとき、「なあ、お袋が死にそうになったとき、何で出張した?」と唐突に聞いた。
 母が入院したとき、長兄も次兄も仕事にかこつけて、ろくに見舞いに来なかった。弟は就職活動中で同じように見舞いに来なかった。長兄は見舞に来なかったばかりでなく、死ぬ直前の二日前、遠く離れた熊本に出張したのである。
「あんな早く死ぬとは思っていなかった」とぽつりと答えた。
あんなに早く死ぬとは思っていなかった! 確かに誰も予想はできない、急な死だった。入院して、僅か一週間後に死んだ。
入院したとき、母はうまく歩けなかったが、意識はしっかりしていた。それゆえ誰もがすぐに死ぬとは思っていなかった。ところが、一週間後、に急に様態が悪化し、あっという間に死んでしまった。自分だけが立ち合った。
死の直前、意識不明となった。死ぬかもしれないという恐怖におののき、気が動転し、結果的に誰も呼ぶことはできなかった。
「あの時、なぜ自分だけ一人だったのか」とずっと考えていた。「少なくとも、長兄は出張に行かずについているべきではなかったか」とも考えたが、ずっと口にすることができなかった。
近くで話を聞いていた長兄嫁が、「後で聞いた話だけど、出張から戻ってきたとき、母親の死に顔を見て、子供みたいにわんわんと泣いたって、近所の人が言っていた」
それだけ愛情が深かったと言いたかったのであろうか。
長兄は何も言わず黙っている。しばらくして、酔いが回ったのか、横になった。すぐに寝入ってしまった。それを見ていた長兄嫁が、「来てくれて嬉しいんだよ。酒が弱いのに、嬉しいと、つい飲みすぎてしまう。自分をうまくコントロールできないんだよね。この人は」と言った。
昔から長兄は酒が弱かった。そして、つい飲み過ぎて、よく酔っ払った。それだけなら別に悪くないのだが、日頃の不満を酔った勢いで母親にぶつけた。ときに激しく罵った。それを聞く度に、長兄への憎みが募り、同時に、「この家にはいられない」と思ったものだったものだが、本当のところは、不器用に甘えているに過ぎなかったのであろう。だが、当時はまだ子供で、とても、そんな長兄の心情を理解できなかった。
穏やかな長兄の横顔を眺めながら、昔のことをあれこれと思い出してみた。

――幼い頃、クリスマスのとき、よく本やケーキを買ってきてくれた。小学校四年生の時、高そうな本を買ってくれた。名作シリーズの第一巻で、その本にはモネの睡蓮の絵が入っていた。その絵の美しさに驚いた。本には、『小公子』、『小公女』、そして『秘密の花園』の小説が収められていた。わくわくしながら数日間で読み終えた。数年前、美術館でモネの『睡蓮』の現物を観た時、長兄から貰った本の記憶が鮮やかに蘇った。――

振り返れば、長兄は長兄なりにかわいがってくれたのである。そのことに気付くのにあまりにも長い時間を要した。
「この家はどうなるんだろうね?」と長兄嫁に鎌をかけると、
「私は病気でもう長くないから、あんたたち兄弟で決めてよ。好きにすればいいよ」と長兄嫁は笑った。
「俺はもう十分、生きた。後は頼む」と言いたげな顔で安らかに眠る長兄を見て、あらためて長兄やこの家のことを思った。
長兄は、子供の頃から、働かせられ、家と田畑そして墓を守るために生きてきた。死もさほど遠くないと悟り、その荷を下ろそうと思っている。誰が、その荷を背負うのか。長兄夫婦に子がいない。引き継ぐのは兄弟のうち誰かであろう。次兄なのか。それとも自分か。あるいは弟なのか。だが、次兄も弟も故郷から離れたところに家を建てた。もう戻る気がないと宣言しているようなものである。すると、自分か……。いや、自分も仕事を捨てて実家に戻るような真似しないだろう。そうすると、長兄は誰にも引き継ぐことなく死ぬしかない。実家はやがて誰も住まなくなろう。長兄とともに実家は滅ぶ。いや、実家だけではない。隣の家も数年前から誰も住んでいないという。その隣も……いや、この集落の全体が廃れる運命にあるのだ。電車もバスも通らず、働く場もない、この集落はずっと前から滅びる運命に定められていた気がする。
安らかに眠る長兄に言いたかった。「悪いけど、家は引き継げない」と。

翌日の朝、長兄に駅まで送ってもらった。
作品名:長兄の重荷 作家名:楡井英夫