閉じられた世界の片隅から(1)
即答。姉は基本的に痛いことが嫌いだ。それなのに自分には痛覚麻痺が効かない。けれど、ヘタに痛覚がなくなるとただでさえ大雑把で不注意な姉のこと、無造作に手をあちこちにぶつけて悪化させかねないので、これでいいのかもしれない。
ただ、ケガの原因は僕がつい、伸ばされた手を取ってしまったことにある。原因の大元を辿れば、姉が考えなしに一気に雪を溶かしてしまったことにあるとはいえ。
「はい、口開けて」
姉の口に一粒痛み止めの丸薬を入れる。それを姉はごくんと飲み込んだ。
「あー、痛ぁ……」
「大丈夫? ……じゃないよな」
「わかってるなら聞かないで……」
姉はがっくりと項垂れた。僕は薬の壜を棚に戻すため、姉に背を向ける。
「僕が頭打ってたほうが良かったかも。僕のケガなら、魔法で直ぐ治せたのに」
申し訳なくて仕方がなくて、僕はそう口にする。そもそも、ケガをするのは僕だけだったはずなのに。しかしそう言って振り向いたそこには、笑っても落ち込んでもいない表情の姉がいた。
「冗談でも、そんなこと言ったら怒るよ」
宝石のような瞳が、僕を見据える。身体の動きが止まる。昔話に出てくる、ひと睨みで相手を石に変えてしまう魔物の目のように。けれど違う、これは魔法的なものじゃなくて。
「もしサザが一発即死だったら? 私だって、死んだ人は生き返らせられない」
「……………………」
「私の考えなしのせいで、あんたが死んじゃったら、……私は、嫌だよ」
『考えなし』という僕が言った言葉を、姉はちゃんと聞いていた。それを、姉がどう受け止めたかはわからないけれど。
「……ごめんなさい」
こんなに静かに怒られることは珍しい。大体姉が怒るときは、かーっと怒って一気に忘れるような、騒がしい怒り方で。憤り、以外のあらゆる感情を排除したような、こちらの怒り方のほうが、余程、きつい。
すっと姉の目にいつも通りの緩い明るさのようなものが戻る。そして次の瞬間、いつものようにからからと笑って見せた。
「ん、反省すれば良し。……あー、私も、今回はさすがに懲りたわ」
「はは。それで不注意が治ればいいんだけどな」
「ん?」
じろりと睨まれる。まったく怖くない。
「じゃあ、ちょっと母屋の方の雪かきしてくるから、痛みが引くまで休んでて」
正午まではあとニ時間くらいある。それまでに家の周辺の雪かきを済ませて、できれば近隣の道路も、せめて大通りに繋がる部分までは歩ける状態にしてしまいたい。場合によっては、ばーちゃんに姉の補助を頼んで、僕は今日は一日雪かきをしていてもいいかもしれない。元々姉の得意分野は魔法による治療なので、痛みさえ抑えられれば多少手が使えなくても治療技術そのものに支障はない。それでも、薬の出し入れや記録など、姉以外が行っても構わない部分においては、どうしても手が必要になる。薬の出し入れぐらいなら最悪魔法で物を動かすことでなんとかできなくもないが、ペンを動かして文字を書くような細かい作業はいくらなんでも難しいだろう。
僕は庭に出た。先ほどの姉の火柱は最初に思っていたよりも結構広範囲だったようで、母屋の周辺も一面凍り付いていて、万一高齢の養母が足を滑らせでもしたらことだ。降り続いている雪が氷の上に少々積もってはいるものの雪かきの必要性はなさそうで、とりあえず離れ、母屋、道路の間を行き来できるように、氷割りをすることにした。
一時間ほど氷割りをして、なんとか三点を繋ぐ通路が出来上がった。ばーちゃんは街中の情報を集めて、人手が足りていない地域を通知して雪かきの手伝いをラジオを通じて呼びかけていたらしい。スーは雪遊びをするつもりで出てきたにも関わらず雪がないのでがっかりしていたが、暫く氷の上で滑って遊んでいた。小さな子どものバランス感覚や身体の柔らかさは絶妙で、僕らがあんなにあっさりバランスを崩して転んだというのに、ちょいちょい転びながらもかすり傷以上のケガをすることはなかった。時折、姉のケガの様子を心配して診療所を覗きに行ったりもしていたが、もし怪我しているのが姉じゃなくて僕だったなら、散々どんくさいのなんのと罵倒されたに違いない。スーに兄としてまともに扱われる日は、一生来ないのではないかという気がする。
一時間掛けて通路が出来たので、今度は道路の雪かきに移る。一見ふわふわで軽そうな新雪も、集まると固く、重く、そして場所をとる。どうせ筋肉痛になるという結果が同じなら、痛覚麻痺をかけてもらってこようか。しかしばーちゃんは痛覚麻痺の多用を嫌っているので、やめたほうがいいかもしれない。痛覚を麻痺させると、物を触っている感覚が消失する。感覚がないのなら、それは世界に触れていないのと同じ事で、もしも全身の痛覚がないのなら、それはこの世界に生きているとは言えない、というのがその持論である。この間の強盗未遂の件と違って、今回は大変なだけで、痛覚麻痺がなくても不可能ではない。雪かきをしているというのを手に掛かる重さで実感しながら、少しずつ少しずつ、道路を広げていった。
更にそれを一時間。正午を知らせるサイレンが聴こえて、僕は家に戻った。これから三十分で昼食の準備をして二十分で食べて片付ければ、予定通り午後からの診療を始められる。あとは道路で様子を見ながら、患者さんが来れば診療所に戻ればいいかもしれない。そうすれば、いつも通り。
そして頭によぎるのが、件の言葉。
たとえ強盗に遭おうと、姉の考えなしの行動で危うく火傷をしかかっても、頭を打って軽い脳震盪になっても、自分に起きたことであればそれはすべていつもの日常に収束する。何が起きようと、それはいつも通りの日常以外の何物でもない。
僕にとって日常に該当しないことがあるとすれば、それは、例えば普段料理なんかしない姉が何を思ったのか両手が使えないのに魔法だけを駆使して昼食の準備をしていてくれていたことぐらいで。野菜をただちぎって並べてドレッシングをかけただけのサラダだとか、牛乳の中で野菜を粉々に粉砕して混ぜただけのポタージュ(らしきもの)だとか、そういう料理と言って良いのかすら迷うような代物だったけれども。
痛みさえ引いてしまえば姉はいつも通り元気極まりなく、道路が歩けるようになってやってきた患者さんたちの治療をてきぱきと行っていく。いつもと違うことは、ちょっとした物を取るだけでも僕の手が必要だということぐらいで、それも、そう遠くなくケガが治ればいままで通りに戻る。
僕の非日常の閾値。それは高いを通り越して、非日常という認識それ自体がないのかもしれない。僕がいつも通りだと認識する日々に回帰できないような事態を、多分非日常と呼ぶのだろうけれど。何が起きればこのいつも通りの日々に戻れなくなるのか、そもそもいつも通りの日々というのがどこまでを含むのかすら、僕には予想もつかないのだ。
今日は晩御飯はいらないってばーちゃんに言っといて、と姉は出かけ際に言った。
「どこか寄って来るの?」
「ん、イスクとご飯食べてくる」
「わかった。気をつけて」
作品名:閉じられた世界の片隅から(1) 作家名:なつきすい