閉じられた世界の片隅から(1)
窓を開けると、きらきらした雪の光が目に飛び込んで、眩しさに一瞬顔を手で覆った。気温は、相当に低い。吐き出すそばから息が凍り付く。顔を洗った時に濡れたままの髪の毛がみるみる氷の塊に変わる。この気温なら、雪は踏み固められてさえいなければふわふわのはずだ。首元まで雪が入らないように隙間がないのを確認して、僕は窓から飛び降りた。ふわふわ過ぎる雪は僕の体重と加速を受けてそのまま潰れ、見事に頭の天辺まで雪に埋もれる。動けない。手足を動かして、なんとか雪をかいてなんとか自分の動くスペースを確保しようと試みる。
「あー、なにしてんのあんた……」
上の方から声がして、次の瞬間、直ぐ傍でぼすっという音と共に雪が霧散した。視界が一瞬ふわふわとした雪に包まれる。姉が降って来た。
「ふうっ」
「うわ、危なっ!ちゃんと下見てから跳んだ?」
「一応見たって、大丈夫だったでしょ?」
若干不穏当な一語があったような気がして、僕は聞かなかったことにしておいた。多分もし僕の上に降って来ていたら降ってきていたで、即死じゃない限りはあっという間に治療して、なかったことにしてしまっていたことだろう。恐らく姉の酷い不注意と考えるより先に動いてしまう性格は、その不注意により招いた出来事を即座に解決できてしまうが故に直らないのだと思う。
「じゃ、周り溶かすから動かないでね」
姉の方向へ行こうとしてた身体を、その言葉と同時に止めた。次の瞬間火柱が上がり、庭中の雪が、音を立てて水へと変わる。なにやらもういろいろと通り越して、とりあえず、熱い。そう思っているうちに解けた水が服にじわりと沁みて、それが瞬時に外気によって冷やされて凍り付く。肌に触れた部分があまりにも冷たい。
「やり過ぎだ!」
「大丈夫よ一瞬だったし」
「勢い余って水蒸気になってたら火傷じゃ済まないよ!?」
「大袈裟だなぁ、大丈夫だったじゃない」
「ちょっと考えなしにもほどがあるだろ! 頼むからその結果オーライ思考少しでいいから改めて……」
さもなければ、そのうち本当に取り返しのつかない大惨事を引き起こしてしまいそうな気がする。いくら姉でも死者は蘇生できないのだし。
「そこまで言うことないでしょ!?」
「僕はともかく、自分が大火傷したらどうするつもりだったんだよ? 少しは後先を考えて――……うわっ」
「サザっ!?」
突然、足元がつるりと滑って、バランスを失う。解けて足元を満たした水は、あっという間に凍り付いていた。先程まで雪の絨毯だったはずの地面は、今や氷の世界に早代わりしていた。姉の手が僕へと伸びて来て、咄嗟に掴んで、しまったと思ったときにはもう遅い。まずい、頭打つ。せめて新雪だったならたいした衝撃じゃなかったのに。
今までの十五年の人生が凄まじい勢いで僕の脳裏を駆け巡る。足を滑らせてから、凍り付いた地面に頭を打ちつけるまでのほんの数秒。ぐしゃ、という嫌な音が聞こえて、僕は一瞬、自分の頭蓋骨が潰れたのかと思った。ぐわん、という衝撃が頭を襲う。それでも、頭蓋骨が潰れたにしては、視界が瞬間ブラックアウトしたけれども、まだ思考は生きている。脳震盪を起こしたのだろうか、少しずつ、少しずつ世界に光が戻っていく。良かった、死んではいないみたいだ。では、さっきのぐしゃ、という音はなんだったのだろう。
徐々に鮮明になってくる視界にまず映ったのは、姉の柘榴石と猫睛石の瞳。そういえば、手を掴んで結果的に引き倒してしまった形になったのだった。なのに、掴んだはずの右手に、姉の手はなく。あれ、と思ったときに、顔に冷たさを感じた。氷のようなその冷たさに、急激に意識が覚醒する。
目の前にあったのは、思い切り目に涙を溜めた姉の顔。冷たかったものは、僕の顔に落ちる前に凍りついた涙一粒。掴んでいたはずの姉の腕の感触が、僕の顔の直ぐ傍にあって。
血の気が引いた。慌てて頭を浮かせる。その瞬間、姉の表情が大きく苦痛に歪む。ああ、やっぱり。
「ーーーーーーーーーーーーっ!!」
「フィズ!? 大丈夫!?」
姉が腕を曲げた。手袋が目に入る。両手の指が数本、あり得ない方向に曲がっていて。
必死で痛みを堪えているのだろう。大丈夫、とも、痛い、とも言わずに歯を食いしばって、暫く動けなくなった。僕の頭を庇って、倒れる寸前、咄嗟に頭を抱えてくれたのだろう。ぐしゃりというあの音は、恐らくは姉の掌の骨が潰れた音で。
「手、見せて!」
なるべく振動を与えないように、そっと姉の上体を持ち上げる。僕の足の上に膝立ちになる格好になったところで、僕も上体を起こした。まずは左手の手袋をそっと外す。手首の金具を緩め、できる限り指の位置を変えないまま、少しずつ引き抜く。それでも、僅かに振動が骨に加わるたびに、姉はぎり、と歯を食いしばった。大粒の涙がぽとり、と落ちては氷の欠片に変わる。姉の白い指先が見える。人差し指、中指、薬指の3本が、あり得ない方向にだらりと垂れ下がっている。何処からどう見ても間違いなく骨折だ。恐らくは痛みによっておおよその状態は理解していても、それを改めて目にしたためか、姉の顔色がすっと青褪めた。
治療をしなくては。外は姉の涙が落ちるそばから凍りつくほどに寒い。診療所の玄関への道は、先ほど一瞬解けて、再び凍りついたままだ。このまま歩けば、また転倒しかねない。姉の膝の下から足を静かに引き抜いて、転ばないように細心の注意を払いながら立ち上がる。それから、姉の胴体を抱えて、なるべく振動を与えないように立ち上がらせた。…さて。
何か使えるものはないかとぱっと見回し、庭の端に積まれていた煉瓦の山が目に入った。
「……ごめん、物凄く痛いのわかってるけど、この煉瓦、粉々にしてくれる?」
涙目のまま、一瞬ちらりとその煉瓦を見て、意図を理解してくれたのだろう、はっきりと頷いた。次の瞬間、地面に置いたままの煉瓦に無数の亀裂が走り、粉々に砕け散る。その破片を拾って、ばら撒きながら診療所までの道を作った。これで、転ばないで歩ける。玄関まで辿り着いたところで姉の所に戻った。まったく滑らなかった。これなら大丈夫だろう。
「ありがとう。……平気? 歩ける?」
「ん、平気……」
小さくて、何時もよりも低い声で、しかしはっきりと姉は答えた。念のため、ふらついてもすぐ助けられるように隣を歩く。ほんの三メートルほどの距離を、慎重に歩いて、僕らは暖かな玄関へと辿り着いた。
「いだだだだだだだだだッ!! 痛い痛い痛い痛い!!」
「はーいじっとして! 暴れるともっと痛いよ!」
「わーってる! けど、あ、いだだだだだだだだだっ!!」
診察室に耳を劈くような姉の絶叫が響き渡る。これだけ叫べるなら大丈夫だろう。ケガをした直後の様子に比べれば随分と元気になっていて、なるべく悲鳴を聞かないようにしながら、少しほっとした。
僕を庇って折った指は、右と左で合計五本。もし折ったのが僕だったなら、今頃とっくに完治している程度のケガ。けれど、魔法が効きにくい体質の姉は、骨折を治すことはおろか、自分の痛みを抑えることすらできない。骨の位置を整えて、動かないように固定をする。このまま、何日かかるだろうか。
「はい、おしまい。痛み止め飲む?」
「飲む」
作品名:閉じられた世界の片隅から(1) 作家名:なつきすい