閉じられた世界の片隅から(1)
言うと、さらに申し訳なさそうな顔をした。本当に済まないと思っている、のだとは思う。特に今回荷物が増えてしまった件は姉のせいだけではないし。ただ、別に今回のような突発的事態が起こらなくとも、すっかり姉の得意技のひとつとなってしまった痛覚麻痺の魔法のお世話になることは多い。そもそも姉の買い物の結果事態がひとつの予測不能な突発的事態に近いからだ。
痛覚を一時的に制限することで、痛みや辛さなく、筋力が許す限りの力を行使できるこれは、姉との買い物には限りなく必須の魔法。しかし痛みというリミッターが取れることで、ついうっかり重い物を平気で持ちすぎて翌日筋肉痛になるのはいつものこと、痛みがなくなるので物に触っている感覚が希薄になり、手をあちこちにぶつけて痣だらけになったり、最悪の場合、腕を動かして勢い余って隣にいた姉を思い切り吹っ飛ばしてしまったことがあった。姉は一瞬僕を怒鳴りつけようと(そして恐らく何らかの制裁を加えようと)して、不意にそれが痛覚麻痺の魔法のせいであること、更にはそれが自分の無計画な買い物のせいであることに思い至ったのだろうか、なんだか怒りのやり場がないといった調子で、一日中機嫌が悪かったり申し訳なさそうな様子でいたり、めまぐるしく顔色がぐるぐると回り続けていた。
姉は姉に流れる人間以外の何かの血の影響なのだろう、普通の人間に比べて極めて魔法が効き難い。魔法への耐性を強く持つために、痛覚麻痺による力技の行使ができないのだ。ただそれでも、一般に知的生命体とされる四種族のうち、魔法への耐性が極めて低いのは人間だけなので、このことは姉の両親が何者なのかを探し当てるヒントにはならないけれど。
うっかり吹っ飛ばしてしまうことのないように、いつもより集中して、籠を掴む。これも慣れていない頃に持ち手を握り潰してしまったことがある。人間の筋力は脳によって制限されているのはどうやら事実らしいということを実地で学んでしまった瞬間だった。あんまり、知りたくなかった。この状態の僕の手が当たった時の姉はどれだけ痛かっただろうか。魔法が効き難い体質ゆえに痛覚麻痺も治癒もできなかった姉は、魔法医でありながら、魔法無しの治療を受けざるを得ず、打撲の跡が綺麗に消えるまでには数日掛かった。
そんなことが二度とないように。慎重に持ち上げた籠は、持ち上げたという感覚がほとんど感じられないほどに軽い。足腰にはずしりと重みがかかるが、腕で重みを感じないだけでも違う。今感じる重さは背中に背負っている件の男の重みだけだ。以前は足腰にも痛覚麻痺をかけていたのだが、段差に足を取られては転び、うっかり爪先に当たった石ころで隣家の窓を割ってしまい二人で3時間に渡ってお説教を食らう羽目となるなど散々だったので、二度とやらなくなった。こういうことがあると普段は厄介者のような気がする痛覚がいかにありがたいものなのかを思い知るけれど、これもできればあまり知りたくなかった。
「しっかし、あんたって反抗期来ないよね」
ふと、姉が呟く。
「普通こんだけとんでもない目に遭い続ければ、多少は噛み付いてくるでしょうに」
「自覚はあったんだ」
「ん?」
姉がぎろりと睨み付けてくる。
「まあ、そんなにとんでもないって思ってもいないしね」
僕は答える。これは本音。元々、姉に本音を隠す必要もない。
「明日きっと筋肉痛になるだろうけど、でもすぐフィズが治してくれる。だいたいそうだろ? フィズがなにかをしでかしても、フィズがだいたいなんとかしてくれる。だから、別にいいんだよ」
危機感がない、必死さが足りない、とは、姉を含めた家族や友達に昔から言われ続けていることではある。大抵のことは、なんとかなるだろうと思っている。強盗に遭おうが怪我をしようが、まったく動じないのは正直自分でも変なのかもしれないとも思うが、性分だからどうしようもない。僕はよく覚えていないのだが、子供の頃に事故に巻き込まれて大怪我をしたときも、姉が治してくれたらしい。
「あー、ん、まあ、そうだね……」
姉はそう言って、苦笑いのような小さな笑い声をたてた。お気に入りの大きな帽子に隠れて、姉の表情は見えなかった。
その後、件の男を養母に引き渡す前に、家に寄って大量の荷物を置いてきた。無論、養母にいつまでたっても治らない無計画な買い物を咎められない為である。正直無駄な足掻きだとは思う。たかだか姉の十九年、僕の十五年程度の人生経験で養母にかなうわけがない。養母は御年76歳とはとてもとても思えない眼光鋭い目で、目敏く僕の腕の痣を見つけた。荷物を置いて思わず伸びをした拍子に、壁にぶつけたときに出来たのだろう。お手洗いに行っていた姉は珍しくそれに気づかず、まだ痛覚麻痺を解除していなかった僕も養母に言われるまで気づかなかった。指摘されて、明らかに姉の身が縮む。
「フィズラク。これはなんだい?」
「げっ」
「げっ、じゃないよ、まったく、あんたって子は! また買い物し過ぎてサザに持たせたね!?」
「こ、今回は違うもんっ」
「今回『は』ってなんだい、『は』って!」
「ばーちゃん、押さえて、血圧が! 僕は大丈夫だから!」
しまった。ついうっかり血圧の話を出してしまったのが癪に障ったのだろう、今度は雷の矛先が僕に変わる。ぎろり、という睨んだ時の表情は姉に似ているものの、その迫力と視線の鋭さは姉の比ではない。思わず背筋がしゃきっと伸びてしまう。
「大体サザがいつもいつも甘やかすからいつまでたってもフィズラクがこうなんじゃないかい!」
「甘やかすって……」
「あんたは黙ってなフィズラクっ!」
お偉い軍人を一喝してこの街から追い払ったという逸話を持つ世界一の姉を気合ひとつで黙らせることができるのは、気合と迫力という意味では世界一のうちの養母ぐらいかもしれない。僕がフィズのやらかすことで唯一危機感だとか緊張感だとか、そういったものを覚えるのは、それが養母に怒られそうなことである場合のみ。僕らがばーちゃんと呼ぶ養母、カラクラは一年前に引退するまで診療所を営む傍ら、国の統治の届かないこの町の治安を守り、悪事を働くものたちに裁きを下し、僕らのような孤児を育てたり引き取り手を捜したりし、更には国とこの街の間の不可侵協定を成立させた、この街の顔とでも呼ぶべき女性だ。加齢と共に視力が低下したことや、体力が落ちてきたことを理由に診療所の業務については僕らにその役目を譲ったが、未だこの街の法廷はばーちゃんであり、街中の人たちから恐れられつつ慕われている。先ほどの強盗未遂を引き渡しに来たのも、この男を裁いて罰を与えつつ、やがてはこの町の一員となれるよう手助けをしてもらう為だ。あれ、そういえばあの男はどうしたっけ。
「おばーちゃーん、この人なーに?」
この緊張感漂う空気を理解した上で、のんびりした口調で、部屋の入り口で妹がばーちゃんを呼ぶ。途端、今までの鬼の形相が嘘のようにとろけんばかりの笑顔となり、ばーちゃんは妹のところへと駆け寄った。
「どうしたんだいスゥファ?」
僕らきょうだいの現時点での末っ子、スゥファは、ばーちゃんにはにっこりと、そして僕を見てニヤリと笑った。八歳児の見せる顔じゃない、と僕は思う。
作品名:閉じられた世界の片隅から(1) 作家名:なつきすい