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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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閉じられた世界の片隅から(1)

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 帰宅する前に帰宅しなきゃいけないことを忘れてしまうかもしれないから、というなんともしっくりこない理由により、ファルエラさんは僕を家の二階の窓まで送ってくれた。頼むから誰にもその姿を見られていないことを祈るばかりだ。例によって忘れているだけなのかもしれないけれど、いくらなんでもさすがに、数キロに渡って物凄い速度で空を飛んで移動するような経験は、今までになかったはずだ。…多分。魔人って本当に空飛べるんだ、昔話みたいだ、などという、半分くらい考えることを放棄したような感想しか浮かんでこなかった。何割かは現実逃避だったのかもしれない。
 その窓が、何処の部屋の窓なのか、二階の間取りが直ぐに頭に浮かぶ。けれど、それが「何の部屋だったか」は思い出せない。
 ファルエラさんは窓に触ることなく中の金具を外し、外側から窓を開けた。そして
「じゃあねェ坊や。…お前さんを信用するからな」
「え?」
 そう言うなり、僕を窓から室内へと思い切り放り込んだ。なんて大雑把な! がらがしゃん、と嫌な音がしたり、埃が舞い上がったり。ああ、なにか積み上げたものが崩れるような振動と音もすぐそばから。物置か? と一瞬思ったが、僕の落ちた場所は柔らかく、周りで鳴り響く様々な音の割りに、身体は痛くなくて。
 目を開く。柔らかなベッドの上。ギリギリのところで僕の下敷きにならないで眠っていたのは、豊かな黒髪の女性。派手ではないけれど、端正で整った顔立ちの、綺麗なひと。恐らく、僕より三、四歳ぐらい年上だ。決して小柄なほうではないが、華奢な骨格。少し痩せた身体。
 僕はわかる。この人が。覚えてはいなくても。
 一歩、近づく。ベッドの上で布の擦れる音がする。最上質の絹糸のような黒い髪が、シーツの揺れに合わせてさらりと広がった。
「ん……」
 近づいたせいか、それとも、先程部屋に放り込まれたときに立ててしまった盛大な音で眠りが浅くなっていたのか、小さく身じろぎをして、そしてゆっくりと、目を開けた。
 思わず、息を呑んだ。左右で異なる色の瞳。沈む陽のような深い赤を湛えた右目と、月光の金色をした、猫の瞳のように輝く左目。柘榴石と猫睛石、二種の宝石のような。寝起きで焦点が合わさっていない瞳に、窓から差し込む朝の光が乱反射しているかのように、輝きが揺らいだ。
 それでも、わかる。覚えてはいなくとも。この美しさだけが、理由ではない。
「サザ……?」
 僕の名を呼ぶ、風のような声だけでもない。
 思わず抱きしめた腕に残る、柔らかな体温だけでもない。
「よかった………!」
 多分、その魂に、そのすべてに、その存在そのものに、どうしようもなく惹かれているのだろう。今の、この人を知らない僕も、この人との思い出をたくさん持っていたはずの僕も。
 そうでなければ、気づけるはずがない。覚悟という言葉の意味も。
「さ、サザっ? どういうこと? どうなってんの?」
「僕にも、わからない」
 けれど、たったふたつ、わかる。
 この人が、僕にとって、唯一無二の、たったひとり特別なひとであること。
 この人が、生きて、今此処にいてくれること。
 僕はこの人が、誰なのかを知らない。それでも。
「あなたが生きててくれて、よかった……」
 そう、思って。
 安心したら、急に身体から力が抜けた。なんだか、物凄く眠かった。温かな体温と窓から差し込む朝陽に、急激に瞼が重くなっていく。
「サザ? おーい、サザー?」
 声が、だんだん遠くなっていく。痩せた手が、僕の頭に触れるのを、ぼんやりと感じた。
「あー、寝ちゃったか」
 まだ、聞こえてはいるけれど、もう返事をする気力もない。
「…私、死ななかったんだ」
 半ば夢現の中で、僕はその声を聞く。
「しょうがないな。今日は、寝てて良いよ。目を覚ましたら、全部思い出してるからね。…ちゃんと全部思い出すんだよ」
 やっぱりサザに忘れられるのは、寂しかったしね。そんな声を聞きながら、僕の意識は夢に飲み込まれていった。
 大切な人の体温を、確かに感じながら。
 たったひとり特別な、大切なひと。フィズのあたたかさを。
 
 
 
 魔人ファルエラさんとの邂逅から、十日程経って。
 長いことベッドの上にいたせいですっかり足の筋肉が衰えてしまったフィズのリハビリも、順調に進んできた。
 失われてしまっていた僕の中のフィズに関する記憶も、そのほとんどを取り戻した。後遺症なのか、今でもたまにフィズに頼まれた用事を失念してしまったりすることが以前よりは多いけれども、それも少しずつ回復していくだろう、とフィズとイスクさんは話していた。
 妹とばーちゃんは、フィズのことを忘れたという事実を忘れた。僕が目覚めたとき、ふたりはフィズの熱が下がったことを喜んでいた。記憶が消えていたことを思い出すこともなく。
 ただひとつ問題があったとすれば、スーの買ってきた物忘れの薬の壜を見て、ばーちゃんが再び深いショックを受けたことぐらいか。その薬をもらった原因である、フィズのことを忘れたこと自体を忘れたため、薬の出所が妹にもばーちゃんにもわからなくなってしまったのだ。妹はまったく気にしていないものの、ばーちゃんはまさか自分で物忘れを気にして薬を買って、さらにそのことを自分で忘れてしまうほどに物忘れが酷くなってしまったのかと考え、その日一日患者さんの体調が逆に悪化しそうなほどの底なし沼のような形相で診療所にいた。なんだか気の毒ではあったのだけれど、そのあたりの説明をすると、毎日のようにフィズが食らうお説教がさらに数時間分追加されそうな予感がしたので黙っておくことにした。
 そして以前通りの妹とばーちゃんとフィズのやりとりが戻ってきた。唯一変わったのは、ばーちゃんが「あれ」とか「これ」とかを使わず、おそらくは意識的に、名詞をはっきり具体的に口にするようになったことだろう。
 イスクさんは、フィズの熱が下がった直ぐ後にお見舞いに来てくれた。いろんな意味で。病気に対するお見舞いと同時に、痛烈な平手打ちをもまた、フィズにお見舞いしてくれたのだ。そして、延々延々長々長々とお説教を喰らわせた。怒られているはずのフィズが笑っていて、好きなように文句を言い続けているはずのイスクさんが号泣していたことが、僕に強い印象を残した。
 フィズは、今回の件で無思慮に行動して、心配をかけた、悲しませたと、素直にイスクさんに謝った。拍子抜けしたのか、なんなのか。そのあとも暫くイスクさんはフィズに対して何事か言っていたけれど、ほとんど言葉の体を為してはいなかった。
 それから、僕に対しても、フィズは「迷惑かけてごめん」と、何度も口にした。
「ごめんね、サザ」
 そう、フィズは言ったけれど。本当に謝らなければならないのは、僕のほうだったということを、僕は知った。
 フィズが僕からフィズの記憶を奪おうとしたのは、僕がその死に耐えられないだろうと思ったから。フィズが抱えていたものを僕に打ち明けてくれなかったのも、そのためにフィズがたった独りで辛い思いをすることになったのも、結局は、いつでもフィズに頼りきりで、自分ではなにひとつしてこなかった僕の弱さ、情けなさが理由だ。