閉じられた世界の片隅から(1)
「嬢ちゃんも相変わらずか…。それじゃあ尚更、このまま終わらせてやったほうがいい。誰にも荷物を預けることすらできなくて、その上嬢ちゃん自身がそんな調子じゃあ、この先耐えていくことなんか、できやしない、絶対」
どういう意味だ。わからない、わからない。僕の目を睨みつけ、ファルエラさんは淡々と口にする。
「家に戻れば嬢ちゃんの気配があるから記憶が消えにくい。綺麗さっぱり忘れるまで此処にいな。嬢ちゃんが、死ぬまで。亡骸も、遺品も全部目に付かないように処分してやる。なんの違和感もなく、記憶の破片すら残さないで、お前さんはなにも起こらない、緩い日常に戻れるぞ」
そんなの。
「戻れなくていい、そんな日常は、僕の日常じゃない!」
そう、僕の日々は。
「ばーちゃんに叱られてもあの人が大泣きして帰ってきても、強盗に襲われても大怪我しても、あの人がいればそれが『日常』なんだ!だから、あの人がいない日常なんて、いらない!」
ファルエラさんは、じっと、僕を見た。目をそらさない。
「姉ちゃん、だからか?」
先ほどから、そこに奇妙なほど拘る。家族だから、ずっと一緒にいて、いつだって助けてくれて。それに頼りきりになって、追い詰めてしまったのは僕だ。忘れてほしいわけ、ないはずなのに。
「じゃあ例えば、嬢ちゃんがお前さんの姉ちゃんじゃなかったら、お前さんは嬢ちゃんが大切じゃないのか?」
「それは」
違う、気がした。例えば、スーが同じ状況だったら、僕はどうしただろうか。できる限りの力を尽くして、助けようとはするだろう。お金で助けることができるのならば、ありったけ差し出すだろう。それがどれだけの労力を必要とするものであっても、家財一式を手放す事態になろうとも、一生かかって返すような借金を背負ったって、それで助けられるなら惜しくはない。お金や物を惜しんでスーが死ぬような事態になったら、生涯後悔し続けるだろう。
だけど、僕の選ぶ答えは、たぶんイスクさんと同じものになる。
記憶が薄らぐ。名前が出て来ない。顔は、まだちゃんと思い出せる。笑顔も、泣き顔も。
「嬢ちゃんは、たぶんこれからお前さんには想像もつかないようなキツい未来が待ってる。別にあたしは未来とか運命がわかるわけじゃないが、おそらく、それは起きる。その時にそれを独りで背負えるほどは、嬢ちゃんは強くない。誰か、半分あの嬢ちゃんの運命を背負ってやる誰かがいない限り、嬢ちゃんは耐えきれないだろうね」
その言葉を聞きながら、反論するための言葉を探しながら、僕は、「あの人」が誰なのかを、思い出せなくなったことに気がついた。
姿は思い出せる。写真よりも鮮明に。笑顔も泣き顔も。あの宝石のように輝く二色の瞳も、豊かな黒い髪も。声も思い出せる。記録鉱石よりも確かに。草原を揺らす風のように、流れるような澄んだ声を。
言葉は、思い出せない。もらった言葉は、たくさんあったはずなのに。日々繰り返すような些細なものも、二度とない大切な言葉も。
この人は僕にとって、なんだったんだっけ。覚えているのは、いまその人が、危機的な状態にあること。それを止められるのは、目の前にいる魔人の人だけであること。僕は、それを頼むために此処まで来たこと。
その人が僕にとって、どうしてもなくせない、大切な人であること。それが、覚えているすべて。
だから。
「僕がその誰かになる、酷い未来が待っているなら、僕が支えたい! 絶対独りになんかさせない!」
だって、この人は。今までの思い出がすべて消えてしまっても、これだけはわかってる。覚えていなくても。記憶も、今までの関係性も、全部忘れてしまっても。ひとつだけ、覚えているから。
そうか、だから。
「…だから、もう僕の命と引き換えになんて、言いません。僕は生きて、あの人のそばにいたいです」
命を捨てる覚悟よりも、ずっと重いもの。
それは、生きる覚悟。
僕に足りないもの。そして、恐らくは、あの人にも欠けていたもの。
「どうしてだい?」
その問いへの解は、ひとつしか覚えていなくても。
きっと、これだけで十分なんじゃないか、そんな気がした。
「たったひとり、特別な、僕の一番、大切な人だからです」
どうして大切だったのか、その理由付けすら忘れてしまっても、それだけはわかるから。
それだけじゃない。大切だったことすら忘れても、思い出せる限りのあの人のことを思い浮かべただけで、また、あの人は僕の中で、たったひとり特別な、大切な人になる。
理由付けも、本当はいらなかったのに、一応持っていただけなのかもしれない。それがなくなってしまっても、こんなにも、愛しく思うのだから。あの人の、存在すべてを。
ファルエラさんは、ふっと表情を緩めた、ように見えた。
「そうか」
少し間があって。
「返してやるよ。今言ったこと、忘れるんじゃないよ」
頷こうとして、ふと。
「…なにを返してもらうんでしたっけ?」
言うと、ファルエラさんは一瞬きょとんとした顔になって、そして腹を抱えて笑い転げはじめた。おかしくておかしくてしょうがないという様子で。
「あー、悪い悪い。お前さんがなかなか本音を言わんから時間食っちまったみたいだねェ。あたしはいろいろあってお前さんの一番大切な嬢ちゃんの命を預かってたのさ。まあ話すと長くなるしどうせその間にまた忘れちまうだろうから、詳しいことはあとでゆっくり思い出すといい」
「は、はあ」
命を預かる、という、言葉がなにを示すのかは良くわからないが、相手は魔人だ、文字通りの意味なのだろう、きっと。どうしてそれを思い出せないのかすら思い出せない。なんのために創造の魔人などというとんでもない存在と対面するなどというありえない状態にあるのかすら忘れてしまったけれど。
「良いかい。…下手な建て前に囚われて一番大事なもんを無くしちまった奴なんざ、とっくのとうに見飽きている。絶対に、嬢ちゃんを手放すな。折角厄介なことを忘れたんなら、忘れたままでも良いぐらいだ。どんなことが起きようとあの嬢ちゃんのすべてを受け止められるやつがいるかどうか。それで、…場合によっては、世界が変わる」
そんな、現実離れしたことを言われても。
何者だったのかすら最早思い出せないあの人が、世界が変わるほどのなにかを抱えていると言われても。もしそれがすべて事実なのだとしても。
…それでも、僕はそばにいてほしい。あの人に。だから。
「絶対に、手を離しません。あの人の為とかいう言い訳で、死んだりなんかもしません。僕は生きて、あの人が生きている限り生きて、あの人のそばに居続けます」
思い出せなくても、誰なのかがわからなくても、それでも。
あの人が僕にとって、かけがえのないたったひとつ大切なものであること。
それだけわかっていれば、十分だと思えた。
作品名:閉じられた世界の片隅から(1) 作家名:なつきすい