閉じられた世界の片隅から(1)
だから、変わらなくてはいけないんだ。フィズを喪ってしまう痛みに耐えられないだろう自分は変えられなくても、フィズに頼りきりだった自分は、変えられる。なにもしなくてもなんとかなると思って、動かない自分は、もういらない。
強くなる。フィズが、僕にも少しは頼ってもいいだろうと思ってくれるぐらいには、強くなりたい。もうひとりで抱え込んでしまわないように。
弟として、いつでもフィズに頼り切ってその後ろをついて歩くのは、もうやめる。隣に立って、お互いに支えあうことができるように、なりたいんだ。
ずっと、フィズと共にあるために。
ファルエラさんの言ったことはあまりにも大袈裟に思えたし、目の前で部屋を存分に散らかしながら、嬉々として昨日からやっと許可が出た薬の調合に没頭するフィズに、そこまでの運命が背負わされてるとは、僕には到底信じられない。けれど、たとえフィズを待つのが今の日々の延長線上にあるごく普通の天才レベルの一生であっても、作り事のように壮大な激しい運命であっても、関係ない。誰かを大切に思うことは、その相手のために自分が傷つく覚悟でも、ましてやその人のために死ぬ覚悟でもないことを、僕は知ったから。
自分の思いから逃げないことと、その人のために生きること。
それがわかったから、僕はもう大丈夫。
強くなる。必ず。
漸く雪が雨に変わり始め、長い冬の間に積み重なった雪の壁が少しずつ低くなってきた。
足元は溶けかけた雪と水の入り混じったべちゃべちゃした地面になっていて、暫くは汚れても良い靴で歩かなければならない季節がやってきた。やわらかな陽射しは、これ以上は雪は降らないだろうことを告げている。今年は例年より雪解けが遅かった分、いつも以上に春を待ち遠しく思う。随分と長い冬だった。
水たまりを避けながら、できるだけ靴を濡らさないように歩く。二人分の足音は、木の枝の上に溜まった雪が水を吸った重みで落下する音にかき消された。
家から夏ならば五分、今時期ならば七分ほどかかる空き地には、フィズが植物の研究用に作った小さな温室がある。フィズが寝込んでいた間は、一応僕とスーが交代で世話をしに行っていたのだけれども、今日は病み上がり後初の温室行きということで、「どれだけきちんと世話をしていてくれたかチェックしないとねー」とにやりと笑っていた。正直あまり自信はない。幸い、温室の植物たちの中で比較的繊細な部類に入る植物たちは、冬の間は雪の下で眠らせておくものが多かったため、僕らの世話がお気に召さずに枯れてしまったということはないはずだ。それも、雪解けが始まったので今日には掘り起こすらしい。
ガラスで出来た、重い扉を開く。これだけの立派な温室は、以前開発した新薬の製法で荒稼ぎしたときに建てたものだ。浪費癖がひどい、というよりもむしろ買い物するときに後先をまったく考えないフィズが、ばーちゃんに怒られないで済んだ数少ない大きな出費がこれだった。
一歩中に入ると外とは別世界のように暖かな空気が僕らを包んだ。暖房も入れていないのに。さほど強いとはいえない太陽の光を、決して逃がさないようなつくりになっているらしい。
フィズは嬉しそうに全体を見て回り、そしてこちらを振り返ってにっと笑った。
「ん、合格!ありがと、サザ。帰ったらスーにもご褒美をあげなくちゃ」
「どういたしまして」
お礼を言われるほどの世話ができていたのだろうか、とは思うものの、ひとまずはほっとした。
「サザへのご褒美はこれだよ」
フィズは温室の隅っこにしゃがんで、手招きをした。呼ばれるままにフィズの隣に。
「ほら、これ」
温室の隅っこの、小さな植物。冬の頭に、フィズが買ったもの。僕はそれが何の植物なのかを知らないままに、水をやり続けていたのだけれど、それが小さな蕾をいくつもつけていた。
「レイベルの花?」
蕾を見て、やっと思い当たる。
「ん。珍しい品種の株があったから、買っておいたんだ。ご褒美というか、お祝いに」
迂闊にも、ずっと気づかなかった。珍しい品種で、葉の形が普通の種類と違ったからだろうか。僕が、一番好きな花だというのに。
お祝い。その言葉に、はっと顔を上げる。フィズが笑っていた。
「少し遅いけど、誕生日おめでとう」
「あ、」
「去年よりもずっと、大きくなったね、サザ」
そう言って、フィズはやわらかく笑った。僕の頭をぽんぽんと撫でる。小さな子どもにするように。
「今年も一年、サザがまっすぐ成長しますように。サザが、楽しく元気に毎日を過ごせますように。…良かった。ちゃんと、この花見せてあげれて」
誕生日。それは、フィズが僕を拾ってくれた日。十三年前のあの日から、僕はフィズの弟になった。フィズは姉として、いつも僕より一歩先を歩き、僕を守ってくれていた。それは、穏やかで幸せな日々。
だけど、ただ流されているだけでは、守れないものがあることを知った。そばにい続けるために、甘え続けないことを誓った。いつまでも、守られている「弟」では、もういたくない。
姉であることだけが理由じゃない。僕を死の淵から救ってくれたことだけでもこの気持ちを説明するのには足りない。思い出が喪われて、フィズとの関係性が思い出せなくなって、それでも、一目見ただけで、なによりも大切なひとであることをすぐに悟ることができた。フィズの存在すべてが、僕は。
「ねえ、サザ」
ふと、フィズの声で思考が遮られた。
「誰かのことを覚えている、ってことは、誰かと過ごした自分のことを覚えているってことなんだよね」
「うん、そうだね」
「みんな、誰かが覚えていてくれるから、自分が存在するのかもしれないね」
そう、フィズは言って。
笑った。穏やかに。
「……サザが思い出してくれてよかった。ありがとう」
その笑顔が、あまりにも、厳冬期の雪に反射する太陽の光よりも眩しくて。僕は、一瞬呼吸が止まったかと思った。
「もう忘れてほしいなんて思わない。だから、覚えていて。私も、サザのことはちゃんと覚えているからさ」
絶対に忘れない。その笑顔を。そのすべてを。たとえすべてを忘れたとしても、僕は多分、今と同じように、フィズに惹かれるんだろう。それでも、忘れたくないのは事実だし、絶対に忘れない。
忘れる暇さえないほどに、そばに居る。
その為に、僕は、変わるんだ。
「うん、忘れない。必ず、覚えているよ」
僕は誓う。自分にも、フィズにも。
数日遅れたけれど、十六歳の誕生日。この街では成人を迎える年齢。
成人を迎えても何が変わるでもない、と思っていた。大人になるとはどういうことなのかも想像もつかなかった。
それでも、今僕が自分に要求する「大人」の水準がひとつだけできた。
一番大切なひとと共に生きられるぐらいには、強くあること。
目の前にいる一番大切なひとの苦しみを、分かち合えるぐらい強く。
僕はもう一度強く誓う。言葉には出さないけれど。自分の心すら直視することのなかった僕を、すべてフィズに任せきりで、自分から動くことのなかった僕を、変えてみせる。フィズと一緒に生きるために。
作品名:閉じられた世界の片隅から(1) 作家名:なつきすい