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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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閉じられた世界の片隅から(1)

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 それでも、今が日常ではないということだけは、わかる。僕がずっと当たり前だと思っていた、このまま流れるように続いていくのだろうとなんの努力も根拠もなく信じていた、日常というものが今崩れて消えてしまおうとしているのだということも。
「ファルエラさんなんですね?」
 そう言った瞬間。女性は突然噴き出して、声をあげて笑い崩れた。面白くて仕方ない、というように。声も普通の人間の女性と変わりなく、僕は少しだけ驚いた。もっと、なにか神々しいかったり、厳かな雰囲気であったりするのかと思っていたから。
 ひとしきり笑い終えると、ようやく女性は顔をあげた。瞳孔の形が人間のものとは違っていたことに気づいた。姉や、イスクさんのものと良く似た形だけれど、色が異なる。
「まったく、あたしのことを呼び出すなりさん付けしたのはお前さんで三人目だよ。だいたい呼び捨てか、さもなくば様付けが相場なんだけどねェ」
 とりあえず、機嫌を損ねた訳ではなさそうで、僕は少しだけほっとする。とりあえず、いきなり殺される事態だけは避けられたようだ。しかし、次の言葉で、僕は今おかれている状況をはっきりと自覚する。
「二人目は、あの嬢ちゃんだよ。姉弟ってのはそんなところまで似るものなのか、それともしつけの賜物かねェ」
 間違いない。この人が、ファルエラさんだ。姉と契約して死んだはずの僕を蘇生させ、姉の命を代償として受け取らんとしている。
「七年振りだねェ、あの時死んでた坊や。坊やはあたしのことなんか、覚えてないだろうけど。あたしを呼んだってことは、多少か知ってるんだろう?」
 七年前の事故のことを言っているのだろうか。ほとんど、覚えていない。此処まで来れたのも、僕の力ではない。
「知人から、何があったのかを少しは聞きました。こんなことになるまで、全然知りませんでした。話してももらえませんでしたし」
「聞こうともしなかったんじゃないのかい?」
 ファルエラさんは、にやりと笑って、僕の言葉を遮った。
「今はどうしていたんだかまでは知らないがね。嬢ちゃんのことだから、昔と同じに、徹底的に過保護に、坊やを育てて来たんじゃないのかい? 苦しい思いも、辛い経験もすることがないように、ただのんびり暮らしていれば、たいして問題も起きないでいられるように、大事に大事に、ってな」
 まるで見て来たように言われて、僕はどきりとした。姉とこの人との間で、七年前に何があったのだろう。けれど、今は思い出話をしにきたのではない。一刻も早く。
「ファルエラさん、うちの姉が、自分の命と引き換えに、僕を生き返らせたというのは、本当なんですね?」
「ああ」
 なんの躊躇いも間もなかった。この人が人間以外のものであることを思い知って、此処に来て、体が震えた。あるいは、気づいていなかっただけで、ずっと震えが止まらなかったのかもしれない。
 震えている場合ではない。言わなくては。
「フィズの命を……返してください」
 声が、震えていた。がたがたと。それでも、言葉にはなった。聞こえているはずだ。
「どうしてだ?」
 どうして。どう答えれば良いのかがわからない。考えてみるまでもなく、今この場で無茶を言っているのは僕だ。一度成立し、ファルエラさんのほうは既にやるべきことをこなしている契約を、破棄してほしいといっているのだから。それは代金の踏み倒しと同じこと。わかっている。それでいま自分が此処に生きているのだから。それでも。
「生きていて、ほしいからです」
 それ以外に、理由などなかった。ただの、わがままだ。
「それに、あたしにどんなメリットがあるって言うんだい?」
 当たり前だ。この人は契約で得た命で自らを永らえさせているという。そんな大切なものを、むざむざ手放すわけがない。
「お願いします。なんでもします」
 たとえ、その代償が。
「お前さんが代りに命を差し出すとでも?」
「それで、フィズが助かるなら」
 答えた瞬間、表情が変わった。背筋に冷たいものが走る。足が固まる。これは多分、恐怖。
「そんなもんで、お前さんは嬢ちゃんを助けられると、本気で思っているのかい?…冗談いってんじゃないよ。あの嬢ちゃんの人生が、そんなに軽いものとでも?お前さんが命を捨ててあの嬢ちゃんを生き返らせれば、それでいいとでも?」
 何故だろう。
「お前さんは、嬢ちゃんにただ生きて欲しいのかい?それとも、嬢ちゃんを助けたいのかい?答えな」
 姉と契約して、姉の命を奪う魔人の言葉にしては。
「助けたい、です」
 その奥に、姉への思いやりがあるような気がして。
「それは、どうして?」
 それは優しくて強烈な違和感。
「大切な、姉ですから。僕を育ててくれた、家族ですから。助けたい」
 言うと、ファルエラさんは、じろりと僕の目を覗き込んだ。
「本当に、それだけかい?」
「それだけ、って」
「お前さんが嬢ちゃんを大事にする理由は、姉ちゃんだから、恩人だからか。たった、それだけなのかい?」
「…どういう意味ですか」
 それ以外に何がある。傍若無人で傲慢不遜で、少しだけ気にしいで過保護な、うちの世界一の姉。僕が一番良く知っている。弟だから、いつもそばにいたから。いつも守られて、いつも助けられて、だから今度は僕が姉を助ける番なんだ。
「その程度のつもりなら、嬢ちゃんは諦めな。お前さんに、嬢ちゃんを助けてやることなんか、できないねェ」
「なっ……」
「家族だから? 姉ちゃんだから助ける? そんなんじゃ到底、あの嬢ちゃんを救うには覚悟が足りないな。他の奴ならまだしも、あの嬢ちゃんを背負うには足りない。それなら、このまま死なせてやったほうがまだましかも知れないねェ。坊や、悪いことは言わない。今なら無事に帰してやる。大人しく帰りな」
 どういう、意味だ。背負う。死なせたほうがまし。引っかかるどころじゃない。さっきから、この人の言っていることが、わからない。どうしてわからないんだ。僕の欠けた記憶があれば、その言葉の意味がわかるのか。それとも、僕が今までに知ることのなかった何かがあるのか。
 わからない、それでも、ここで諦めるのは、絶対に嫌だ。
「帰りません」
「お前さん程度があの嬢ちゃんを背負えるか! それができないんなら、諦めたほうがいいんだ!」
 声を荒げる。やっぱり、この人と姉の間には、契約以外の何かがあるように思えてならなかった。気になるけれど、それはすべてが片付いたあとでいい。今は、とにかく時間がない。
「嫌です、諦めない! 僕が諦めたら、フィズのすべてが消えるんだ!」
「…どういう意味だい?」
 ともすれば薄れそうな記憶を必死で繋ぐ。時間があまりない。急がなければ、助けたかったのが誰だったのかすら、忘れてしまいそうで。
「フィズが、僕らにフィズのことを忘れさせようとしてるんです。残される僕達が悲しまないように、と。だから、このままフィズが死んだら、少なくとも僕達の中から、フィズのすべてが消えてなくなる」
 ファルエラさんは、それを聞き、呆れ果てたような表情を浮かべた。