閉じられた世界の片隅から(1)
「この瞬間も、本来であればサザ君の記憶消去は進行するはずなの。今でもサザ君がちゃんとフィズラクを覚えていられるのは、サザ君の中の記憶の中に、あの子がたくさんいるからっていう物量的な理由。今は多分、わたしの近くにいるから止まってるわ。だけど、もう大分欠落が進んでいるんでしょう?」
僕は頷いた。そして。
「……フィズが僕の記憶を消そうとした理由は、わかりました。でも、なんで、フィズが」
その先の言葉を、僕は口に出したくなかった。口に出したら、それが現実味を持って迫ってきそうで。それは、イスクさんも同じなのかもしれない。彼女も暫し、沈黙して、しかしそれを静かにはっきりと、打ち破った。
「死んじゃうのかってことね。これも、この間、サザ君がいない間に聞いたことよ。サザ君、……あなたは、七年前に大怪我をしたときのことを、覚えているかしら?」
七年前、大怪我。それは「知っている」であって「覚えていない」ほどの記憶。
「えーっと……町外れで爆発事故に遭ってすごい大怪我したってやつですか……?」
イスクさんは、頷いた。多分当時のことは、僕よりもイスクさんのほうが知ってるぐらいだろう。僕はほとんど覚えていない。姉にまつわる記憶が消えつつあるせいもあるだろうけれど、そもそも事故に遭ったときから三日後に目を覚ますまで僕はずっと意識不明で、やっと意識が戻った頃には既に怪我は綺麗さっぱり治っていたので、僕には事故に遭っている間の具体的な記憶があろうはずもないのだ。事故に遭ったことを覚えているような気がした時期もあったのだが、それも姉やばーちゃんたちから当時の話を聞いたことで、記憶があると錯覚していただけかもしれない。
イスクさんはそうそれ、と頷いた。
「そのとき、大怪我じゃなかったって言ったら?」
「え? 軽傷だったんですか?」
首を振る。そして。次の言葉を、僕は理解できなかった。そんなはずない。だって、今現に、僕は
「サザ君は、あの時、死んでいたのよ」
耳を疑う。耳は音を拾っている。頭が拒否する、理解するのを。
「嘘、でしょう」
「嘘じゃないわ」
「冗談」
「言っているように見えるの?」
見えなかった。でも、信じるには、あまりにも現実離れしたその言葉。
「……フィズは、いくら自分でも死んだ人間の蘇生なんかできないって」
「うん。フィズラクには無理。でも、高位の魔人ならできるって、言ってなかった?」
「言ってました」
そう、笑いながら。死者を蘇生させたとかいう噂が流れたときに。
「当時十二歳のフィズラクが、創世クラスの魔人を召喚してサザ君を生き返らせたって言ったら、あなたは信じる?」
「…・・・嘘じゃ、ないんですよね」
「そうよ。……嘘だったら、冗談だったら、どれだけいいかしらね」
そして、深くため息をついた。
「サザ君は、魔人とかについてどれぐらい知ってるの?」
僕は、首を振った。
「ほとんど何も。魔法とか苦手でわからなくて、ずっと勉強から逃げてたので。神話ぐらいだったら、絵本で読んだことがあります」
「そっか。じゃあ、この世界を作ったのが七人の魔人と精霊だってことくらいはわかるわね?」
さすがにそれは知っている。それは、昔話の領域だから。
この世界は、混沌の海から七人の魔人と精霊の王によって構築されたという。なにやら過去にひと悶着あって元の世界にどうにも居辛くなった七人の魔人と精霊の王が、この世界を構築し、彼らとその眷属、そしてそれに付き従う人間や動物を引き連れてこの世界に移住したという。
「魔人や精霊は人間より遥かに長命で、天寿を全うすれば千年近く生きると言われているわ。それでも、創世の七人の魔人のうち、六人は既に亡くなっている。未だ存命であると言われているのは、六人目の魔人だけ、なんだけど、魔人って、どういうものかわかる?」
「………ごめんなさい、正直」
僕の無知のためになかなか本題に入れない。僕としては説明を端折ってもらってでも早く姉について聞きたいのだけれど、しかし最低限の説明がなければ状況がわからない。もっとちゃんと苦手な分野から逃げずに、きちんと勉強しておけばよかった。なにかをサボったツケは、こんなところで回ってくるものなのか。
「ええと、じゃあ簡単に説明するわね。生きた人間は、生命力と魔力を持っている。これらは相互に変換可能だけど別のエネルギーなの。そしてもって、人間は魔法の力を行使することはできなくて、魔法を使うときには精霊か魔人、あるいは魔族と契約をして、自分のエネルギーを引き渡す代わりに何らかの現象を起こしてもらう。ここまで大丈夫?」
「大体は」
「大体で十分だわ。精霊の場合引き渡すのは魔力。魔人の場合、代価として差し出すのは自分の生命力。平たく言えば、寿命」
その言葉を聞いて、なんとなく僕は事態を把握した。詳しいことはわからなくても、姉が何を犠牲に何をしたかだけは、わかった。
「フィズは、フィズの寿命と引き換えに魔人と契約して、僕を生き返らせた。そういうことなんですね?」
「そうよ。高熱はその合図なんだって、言ってた。もうすぐ、寿命が尽きるってことを知らせる合図」
はっきりと、イスクさんは答えた。
「なんで、そこまでして」
僕を。助けたんだろう。自分の命を捨ててまで。イスクさんは目を伏せて、淡々と言葉を紡ぐ。
「……サザ君のことが、自分よりも大切だからよ。あの子は、自分の価値をすごく低く見ている。だから簡単に自分を捨ててしまえる。まわりがどう思っているかなんて、考えない。考えようともしない。だから……フィズラクは、バカなのよ。悲しませたくないから記憶を消すなんて、バカしかやらない。みんなの記憶がなくなったら、あの子が生きていた証が消えるようなものなのに」
生きていた証。その言葉が、重く突き刺さった。姉についての記憶、それは恐らく僕の記憶のほとんどすべて。だから、それが消えるということは、僕が生きてきた証も、消えることを意味していた。
「イスクさん」
イスクさんが、顔を上げる。目の縁に一粒、涙が見えた。きっとそれはたぶん、悔し涙で。
「前、イスクさんは無理だけど、僕ならフィズを助けられるかもしれないって、言いましたよね」
「……うん」
小さく頷く。しかし、歯切れはあまり良くなかった。それでも、僕は聞かなきゃいけない。
「教えてください」
命と引き換えで、救ってくれたんだ。こんな僕を。
「どうすれば、フィズを助けられますか」
今度は、僕の番なんだ。それは僕のためかもしれない。亡くしたくない。いない世界なんて、想像もつかない。生きていて欲しいと願う気持ちがたとえ思いやりじゃなくて、僕のエゴでも。それでも、僕は助けたい。
「……魔人は人間の生命力に直接干渉できる。それは魔法とかでは防げない。だから、フィズラクが契約した魔人を呼び出して、直接交渉して返してもらうしか、方法はないわ」
「じゃあ」
「でもね」
姉の右目と似た、赤い瞳で、僕を真っ直ぐに見詰める。以前だったら動けなくなっていたその目。けれど、今回は、自分の意思で、目を逸らさない。
作品名:閉じられた世界の片隅から(1) 作家名:なつきすい