閉じられた世界の片隅から(1)
続きの言葉を聞きたくなくて、僕は靴も履かずに家を飛び出した。さっきまで歩くのがやっとだったのに、今何処を走っているのかわからない。周りの景色も目に入らなくて、僕はただひたすらに走った。走って、走って。街の広場にたどり着いて、僕の足はそこで止まった。
走っても、何も変わらないのに。どれだけ必死に走っても、それで姉の姿が浮かんでくるわけじゃないのに。けれど、止まってじっと考えてしまうのが怖かった。コートすら着ていなかったことに今気がついた。まわりの人たちの奇妙なものを見る目が僕に刺さっていた。
「なんだ若先生、誰かに追っかけられでもしてんのかい?」
声を掛けられて見上げると、以前うちの診療所に来たことのある若い大工さんがいた。足場を踏み外して頭から血を流して運び込まれ、姉の治療を受けた人だ。
「あ、あのっ」
聞かずにはいられなかった。意味不明な質問だとはわかっていた。それでも。
「フィズラクのことを、覚えていますか!?」
大工さんはきょとんとして、そして…笑い飛ばしてくれなかった。怪訝そうな顔をして。
「誰だい、それは」
確信に変わった。それは、絶望に近かった。世界が、真っ暗になったような気がした。
「……知らないなら、いいんです、ごめんなさい」
間違いない。僕だけじゃない。すべてが繋がった。
誰もが、姉のことを忘れていた。まるで初めからいなかったみたいに。
なんで、どうして。そんなことありえない。いなかったなんて、そんなわけない。僕の人生のほとんどは、共にあって。ずっと一緒にいて。
もしも姉が初めから存在しなかったなら、今この僕は此処にいないのに。
どうしたらいいのだろう。誰かが僕に何かを言っているけれど、耳に入らない。足も覚束なくて、僕が何処へ向かって歩いているのか、それすらわからない。
家に戻りたくない。戻ったら、何か恐ろしい現実を、突きつけられる気がして。
ふと、あの家から逃れるように走り去った、イスクさんの姿が浮かんだ。少しだけ姉と似た人。あの泣き顔が、そしてその言葉が。
今のこの事態を、予測していたかのような言葉が。
立ち止まる。深く、深く息を吸う。少し落ち着いた。自分のものじゃなかったみたいな足が、思うように動いた。何処にいるのかすらわからなかった視界が、はっきりと冴えてきた。
何をすべきかが少しでも見えれば、こんなに落ち着くものなのか。ほっとするとは違う。まだ何も解決してはいないから。
イスクさんのご両親に聞いて、僕は城下町にある研究所へと向かった。やはり、イスクさんのご両親も、姉のことを忘れていた。あれだけかわいがってくれていたのに。それでも、もう僕は泣かないし、混乱しない。まだ、大丈夫。イスクさんに用事があるというと、ご両親が靴と上着を貸してくれた。靴も履かずに飛び出してくるなんてどれだけ慌ててたんだ、と笑う顔は、いつもの彼らのものだった。違和感があったのはフィズのことを覚えていない、ただそれだけ。
研究所でイスクさんの知り合いだと言うとあっさり通してもらえた。下手に有名な人でないからこそ、直ぐに信じてもらえたのかもしれない。それでも先日の発見で、イスクさんは個室をもらえる身分になったらしい。イスクさんらしい、無駄もごつさもない、シンプルだけれども品の良い家具と、大量の本に囲まれた部屋に通されて少し待つように言われた。
ややあって、早足の足音が聞こえる。そして血相を変えた、しかし冷静な表情を保ったままのイスクさんが部屋に戻ってきた。そして座っていた僕の前に立った。
「ありがとうサザ君、覚えていてくれたのね」
僕は頷いた。イスクさんは、淡々と口を開いた。
「世間話の余裕はないわ。フィズラクが急変した? それとも、あなたたちがフィズラクのことを、忘れた?」
「!」
思わず目を見開く。やっぱり、この人はすべてわかっていたのだ。
「後者なのね。……ごめんなさい、そうならないようにしようと思って調べてたんだけど、間に合わなかった」
「……どういうことなんですか? 必要になったら話してくれるって、言いましたよね」
イスクさんは、しばらく逡巡して、そして。
「わかったわ。今回の件を仕組んだのは、他でもない、フィズラク。まずはあなたたちから、それから、街中から、自分を忘れさせているの」
僕は、耳を疑った。姉が、自分で自分のことを、忘れさせている。それが意味することがわからなくて。
「この間、サザ君にお使いを頼んだよね。あのとき、サザ君が買ってきてくれたのは、わたしの頼んだやつだけ。覚えてないかしら、本当はあのとき、フィズラクもサザ君にお使いを頼んだのよ。あの子の好きな、ドラマを、三本も」
「え……っ」
まったく、思い出せなかった。そしてあの買い物の結果を見た途端、イスクさんが激怒したことが頭に浮かぶ。そして、ひとつの疑問も。
「どうして、イスクさんは覚えているんですか? フィズが、イスクさんの記憶だけ残してるんですか?」
イスクさんは首を振る。とても、悔しそうに。
「違うわ。フィズラクと同じ、わたしも、魔法が効き難い体質なの。純血の人間じゃないから」
「あ……」
そういえばそうだった。姉の魔法の効かない体質の理由。同じような出自を持っていることは、この人の容姿を見れば明らかだ。それも確か、イスクさんの場合は本人だけじゃなく、彼女の半径五十センチほどの範囲で起きた魔法をすべて無効化するほどの強力な魔法耐性。自分の発した魔法すら無効化してしまうために魔法が使えない。そんなようなことを、聞いた覚えがある。
「これはフィズラクが魔法でやっていること。だからわたしの記憶は消せないの。……本当は、消したかったんだと思うけど」
「どうして、フィズはそんなことを?」
イスクさんは目を伏せた。こういうときの表情も、何処となく、姉に似ていた。瞳の色のせいだけではない。
「……サザ君たちを、悲しませたくないからよ。多分、フィズラクはもうすぐ死んじゃうから」
何を言われているのかわからなかった。変な汗が浮かぶ。なんて言った? 死んじゃうって、誰が。
「あの子は、バカだから。自分がいなくなったら、サザ君が泣くから、……だから忘れさせるって。サザ君だけ記憶を消したら変なことになるから、みんなの記憶を消すって言うのよ。わたしの記憶は消せないから、わたしにだけは、話すって……」
「な、に、言ってるんですか、イスクさん」
口が、うまく回らない。言葉が、出てこない。
「買い物に行く直前に、あなたにかけた魔法がそれ。感染性で進行性の記憶消去。あなただけじゃなくて、あなたと目が合った人にも魔法がコピーされて、記憶を消していくの。あなたに魔法を感染された人も、同じように感染能を持つわ。だから、あなたと会話した人は、フィズラクのことを覚えていない。会話の中で、あの子の名前が出てくることは、なくなる」
イスクさんは一瞬、言葉を切った。
作品名:閉じられた世界の片隅から(1) 作家名:なつきすい