閉じられた世界の片隅から(1)
「いっそイスクだったから、諦めがついたのかもしれないね。イスクが先生のこと好きだって話してくれていたら、もしかしたら身を引いていたかもしれない。イスクのほうが、先生より大切だもん。先生と会う約束があっても、私じゃないと治せない急患が来たら診療所に残ったと思うし、私の中で先生は最優先にはなれなかった」
「急患のことは、しょうがないと思うけど…」
姉は首をかすかに横に振った。
「それはいいのよ。私は医者だし、イスクは大事な友達だし。でも、」
そこで、言葉が途切れる。そして、
「あー、やっぱり良いや。なんか頭こんがらがってきちゃった。熱出てるときに考え事なんかするもんじゃないわ」
姉は、いつものような、からからとした笑みを浮かべて、記録鉱石を元の位置に戻した。そしてこの話はここでおしまいだとでも言うように、音量を上げて記録鉱石のスイッチを入れた。
『ああん、そんなところ、さ、触らないでぇぇ』
「うわ!?」
「あー、忘れてたっ!! 濡れ場濡れ場!!」
「連呼してないで止めてよっ、下にばーちゃんいるんだって!」
「げっ!!」
慌てて姉がスイッチを切ろうとする。その間も流れ続ける男女のなにやら睦まじき声音。ところが、手元が狂ってボリュームつまみが思い切り回る。まずいと思ったときにはもう遅い。
『あ、ああっ、らめっ、き、気持ちいいぃーっ!!』
「おまえたちなにやってんだい!?」
ばーちゃんが怒り心頭で飛び込んでくる。それはそうだ。
「ば、ばーちゃん誤解だって!!ほら、服着てるでしょちゃんとっ」
姉が飛び起きてアピールしようとしたその瞬間。
はらり、と。
昨日脱ぎっぱなしだったまま布団の隅にまぎれていたらしい、姉の下着が床に落ちた。
「……………………………」
「…………………………………」
「…………………………………………………」
「「「……………………………………………………………………………」」」
ばーちゃんの視線が、僕と姉と、姉の下着の間をぐるぐると移動する。数秒の、間があって。
「フィズラクっ、サザ、おまえたちふたりきりで一体何をぉぉぉぉーーーーー!?」
「誤解だってばーちゃぁぁぁーんっ!」
姉の悲鳴が木霊する。ああ、なんだか熱もないのに頭が痛くなってきたような気がした。
姉はこの機会に部屋を改められ、記録鉱石コレクションも相当量を没収されたらしい。寝込んでいる間なにをして暇を潰せば良いのよ、とぶつぶつぼやいていたが、どうやら本当に見られたらまずいものは、別の場所に隠してあるから大丈夫だという。やはり姉の辞書に反省の文字はない。そしてばーちゃんの前では言わなかったけれど、きっと隠し場所は僕の部屋だ。チェックが入らなくて良かったんだか悪かったんだか。
そんなことをしているうちに昼休みはあっという間に終わり、僕は食器をお盆に載せた。
「あーあー、とんだ災難だよー」
先刻の一件が効いているのか、だいぶがら空きになった記録鉱石を置いてあった棚を見て、姉はため息をついた。
「…あれって、全部さっきみたいな内容だったの?」
「ん、そうでもない」
「なんか煮え切らない感じの答えだなぁ……」
「私が面白いと思ったもの、って基準だからね。ちっちゃい時に聞いてたような昔話なんかもあるよ。多分捨てられてないとは思うから、そのうち取り返すけどね」
「できれば正当な手段で取り返してね」
今後姉がやらかしそうなあれこれがいくつか頭に浮かんでは消え、僕はなんだかまだ何も起きてないにも関わらず疲れてしまった。姉が怒られるときには大抵僕も巻き添えを食らう。姉を甘やかし過ぎだ、などという、普通、弟が言われることのない理由で。僕が原因で怒られたことって、そうないような。
「氷枕の替えはここにあるから。具合が悪くなったら直ぐ呼んで」
「ん」
熱の割りに元気そうな姉は、短く答えた。いつもよりとりたててハイということもない。二日酔い以外で体調が特に悪そうでもなく、咳も鼻水も喉の痛みもない、ただの高熱。姉の様子を見る限り、大したことではないだろうと思っていたのだけれど、逆に症状がないからこそ、ばーちゃんは重病を疑った。
診療時間が終わったあと、ばーちゃんと僕で思い当たる限りの高熱が出うる病気すべての検査を行ったのだが、どれもこれも結果は陰性だった。姉に悪いと思いつつ、昨日酒を飲んでいたことを伝えてはおいたが、それも手がかりにはならなかったようだった。本人も元気そうなことだし、とりあえず今日は様子を見ても大丈夫だろうと判断して、ばーちゃんは母屋へと戻った。
「まったく、ばーちゃんは心配し過ぎだって」
少しだけ気まずそうに、姉は頭を軽く掻いた。
「あんたもよ、サザ。私の心配ばっかりしてて自分が具合悪くなったりなんかしたら困るんだから、もう部屋に戻りなさい」
「はいはい。…おやすみ、フィズ」
「おやすみなさい」
もう夜も遅い。後は入浴を済ませて寝てしまおう。そんなことを考えながら、ドアに手をかけると。
「ねえ、サザ」
呼ばれて、振り返る。
「仮に。もし、仮に、私がこのまま死んだりなんかしたら、あんたは悲しい?」
冗談にしてはやたらと重たい声音で、姉は尋ねた。
「悲しいに決まってるだろ。…珍しいね、弱気になるの。大丈夫?寝るまで此処にいようか?」
「小さい子どもじゃあるまいし大丈夫よ。…そっか、悲しいか」
頭は良いはずなのにあまり物事を深く考えない姉が珍しく何かを考えるような顔をしていて、僕は僅かに不安を覚えた。
「悲しいに決まってる。きっと、少なくとも暫くは、泣いて過ごすと思うよ。…だからそんなこと言ってないで、早く寝て、さっさと元気になってよ、フィズ。熱あるんだから、考えるなんて普段でもしないようなことやってないでさ」
「ん?」
そうだ。深く考えたり悩んだりするのは、どうも姉には似合わない。それ以上に、弱気な姿が。やっぱり多少考えなしでも無鉄砲でも構わないから、いつもの元気で能天気な姉でいて欲しいと、僕は心からそう思った。
しかしこちらを睨んだ強気な光は次の瞬間にはまた消えていて、またなにやら考え込んで。
そして次の日も、そのまた次の日も、姉の熱は下がらなかった。本人は至って元気で、二日酔いが治まってからは熱以外の症状はなにもない。それでも、僕は診療所をばーちゃんに任せて、姉につききりで看病をすることにした。心配性すぎる、あまりに過保護、私のプライバシーは保証されないのか、などと当人はやや不機嫌だけれど、三日も原因不明の高熱が続くなんて只事ではない。念のため、できる限り誰かがそばにいるようにしないと、何かが起きてからでは遅いのだ。
水枕が温くなってきたので、取り替える。額に乗せると一瞬身じろぎをして、「冷たっ」と呟いた。
「ねー、サザー、暇ー、退屈ー。なんか面白いのない?」
「面白いのって、例えばどういうの?」
本人にしてみれば体調は悪くないのに三日もベッドの上。正直よく我慢していると思う。姉の性格を考えれば、今すぐにでもベッドを飛び出してなんでもいいから活動したいに違いないのに。
作品名:閉じられた世界の片隅から(1) 作家名:なつきすい