息衝くオトコ
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一人タバコの煙を燻(くゆ)らせながら、吉田はひっきりなしに流れる人々と左手の中の携帯電話を交互に見ていた。
暖かい日だった。山間の町にも、ようやく春が訪れようとしていた。
町にある一番大きな寺院は、人で埋め尽くされていた。人々は一様に黒い服を身にまとい、沈痛な表情をしている。寺院の大きな門の脇には、立派な毛筆態で『此島家』と記されていた。春暖の風には不釣り合いなほど、その文字は濃く暗く、存在感があった。
道を隔てた斜向(はすむ)かいにある『和田仏具店』の駐車場。そこを勝手に喫煙所として使っていた吉田に、見覚えのある顔が声をかけた。
「よう、幸一。お前も帰ってたのか」
「久しぶりだな、啓太。昨日帰ってきた。三年ぶりの帰省が、こんな形になろうとはな」
お互いに町を出ているので、なかなか会う機会のなかった清水は、一回り横に大きくなっている。
「本当にな。俺は毎年帰って来てはいるが……なあ」
吉田と同じように弔問者の黒い流れを見ながら、清水は言葉尻を濁した。大きな溜息を吐いて、後は一気にしゃべった。「全然、気付かなかったんだ、此島の親父さんが大変だったなんて」
無理もない。同じ町に住んでいる人たちでさえ、気が付かなかった人がほとんどなの だ。町を出ている人間にどうしろというのだ、と胸につかえたわだかまりを吐き出すべく、吉田はタバコの煙を空に向かって勢いよく吹きつけた。吉田の心のもやもやとは裏腹に、自由になった煙はいとも簡単に散っていった。
「それは俺も同じだから――」吉田の手が小さく震えていた。「こんな事になってるとは、露とも思っていなかった」
此島の父親は、高校の教師だった。真面目な良い先生だと評判だったのだが、心の病が父親を蝕(むしば)んでいた。油が紙に浸み込むようにじわりじわりと父親の心を追い込み、ある夜、そこに火が放たれた。すっかり油に浸った紙は、何の躊躇いもなく赤々と燃えあがり、全てを焼き尽くした。
日付の変わった静かな夜、此島の母親を包丁で滅多刺しにしていた此島の父親。それを止めるつもりで飛びこんだ此島は、怯むことなく振り下ろされた刃の餌食(えじき)となった。刃物に素手で挑んだ此島に、最初から勝機はなかったのかもしれない。血だらけになった夫婦の寝室の隣で、父親は一人首を吊った。
翌朝、離れに住んでいた此島の祖母が発見するまで、騒然とした家の中は静寂に包まれていたらしい。
「ああ、やっぱり。清水君に吉田君。久しぶりねー」
「中島か。久しぶりだな」清水の声の緊張が少しほぐれていた。「去年の正月以来だよな」
「そうそう、あの同窓会とは名ばかりの飲み会以来ね、清水君。でもあれは、同窓会じゃなかったわよね。飲みたい人だけ集まった感じだったもの」
二日酔いで翌日は大変だったと楽しそうに愚痴った中島さなえは、清水の賛同を得て笑顔を作った。その顔のまま吉田に向き直る。
「吉田君は、本当に久しぶりよね。仕事場から吉田君を見つけて、此島君に電話した時以来かも。わたしが吉田君を見るのって」
「だろうな。前回帰って来たのが、その時だから」
「あら、じゃあ、わたしはかなりの確率で吉田君には会ってるって事?」
「ここ三年の統計を出すなら、一〇〇パーセントだな」
不思議と明るい中島に飲まれているのか、吉田は落ち着きを取り戻し始めていた。
「此島君と一緒だ。此島君もパーフェクトでしょう?」
「理だったら、幸一が大学行ってから帰ってくる度に会ってたんじゃないのか?」
横から清水があたかも見てきたかのように話した。「俺の時もそうだったからな」そう言うと、静かに笑って鼻をすすった。
ああ、なるほどと頷ける推理には何の捻りもなかったが、「それがあいつだ」と吉田も笑った。
「理だけだったからな。帰ってくる度に会ってたのは」口調は変わらなかったが、清水の目が潤んでいた。「しかも約束をしてわざわざ会いに行くってわけでもないのに、いつも居たんだよな、理は――」
頷きながら清水の話を聞いていた吉田も、思わず涙腺が緩む。二人同時に、ずるっと鼻をすすった。それを見ていた中島は、無言で二人の肩を殴った。
「此島君は、自分だけ生き残ったら後悔していたと思うんだよね。いつも、現実と真っ向勝負してた人だったから。おじさんの事も、最後まで諦めてなかったと思うよ」
思わぬ痛みに鼻水も涙も止まった吉田は、ハキハキ話す中島の意図を探るように見ていた。そんな視線を感じてか、中島は続けてしゃべり始めた。
「たぶん、信じてたんだよね。おじさんは治るって。誰が何と言おうと、治るんだって。此島君は、信じたらどこまででも信じられる人だったから。それが彼の長所でもあり、短所でもあったんだろうけど……。あ、故人を悪く言ったら化けて出るかしら? まあ、此島君ならいつでも歓迎だから、幽霊でも」
あはは、と大口を開けて笑った中島は、さっきより大人びた女の顔になった。中島は此島の事を好きだったのではないか、と吉田は漠然とそんな事を思った。そしてその考えは、きっと間違っていないだろうという確信さえあった。
「白蛇を信じてなかったわけじゃないんだな――」
ぼそっと吉田は呟いた。清水が目を瞠(みは)って、口を開けている。そのまま鼻から大きく息を吸い込んで、吐き出すと同時に「理が来たのかと思ったぞ」と言った。
吉田は苦笑いを返して、公園にある祠とそこでの此島との会話を話した。
「あいつにとって、白いからとか珍しいからで祀られるってのが、信じられなかったんだろうな。って、今頃気付いた。他人が見出した神秘は、奴にとっては何でもなかったんだな」
「理の話は、三回ぐらい突っ込んで質問をしないとわからない事が多かったからな」と清水が言うと、
「頭の回転が良いんだか悪いんだか、突拍子もないことを言い出すしね」と中島がそれに乗っかる。
「あの時は、突っ込んで訊いてもわからなかった……んだと、思うけどな」
なぜだか吉田は慌てたように、言い訳じみたことを口走った。
「今年の夏は、『盆踊り』に精を出すわ。身体がついて来てくれるといいけど」
中島は、左手を右肩の上に乗せ、気合い十分に右腕をぐるぐる回して見せた。それを見て、清水と吉田は吹き出した。
「盛大に脇目を振って踊らなきゃな。理なら毎日来るぞ、きっと」
「ああ、あいつなら毎日来るな。脇目を振りながらの踊りは、案外キツイぞ」
「なあに? 何の話?」
「いや、いいんだ――あいつの踊りは、真似をする方が難しいってことだ」
さっきまでの涙とはいささか根源の違うものが、吉田の目を潤ませていた。隣では、清水も腹を抱えて笑っていた。相乗効果で、腹をよじって涙を流し、呼吸のタイミングを逃しそうなほどのバカ笑いは、なかなか終息しない。最初は呆れたように見ていた中島も、誘発されて笑い出した。
肩が大きく上下するような呼吸をして、清水が口を開いた。
「理は、息衝(いきづ)いてるな。あいつは、すごいな。いなくても、ここにいる」
「今年のお盆は、帰ってくるかな。『盆踊り』、徹夜で踊れるかはわからんが……。あいつなら、開始早々に来る、だろ、う――」