息衝くオトコ
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夏の風物詩である盆踊りは、この町の人にとってはかなり特別なものだ。
毎年三二夜、七月半ばから九月初旬まで行われる。八月なんかは毎日、町のどこかからか囃子(はやし)が聞こえてくる。そして、正にお盆に踊られる『盆踊り』は夜通しだ。日が落ちたころに始まり、東の空が白み始めるころまで、三味線と太鼓、笛の音、それに合わせた唄囃子が途切れることなく続く。歴史ある伝統行事だ。
此島は、高校二年の春に祖父を亡くした。新学期が始まって、間もなくした頃だった。 その年のお盆の『盆踊り』は、初日の開始から吉田と此島、そしてもう一人の同級生、清水啓太は会場にいた。此島はひたすら踊っていた。間に一曲分だけの休憩を所々で挟んではいたが、残りの時間は踊りの輪の中にいた。
踊りの輪とは言っても、十字路の交差点に屋形が立てられ、それを中心にして踊る人が十字路に沿って輪を作る。人が増えればその十字の輪は長くなり、それでも足りなければ二重、三重になっていく。一周するのに小半時間では足りないぐらいだ。
踊りのセンスが皆無な此島は、迷惑な限りを尽くして周りをまき込みながら、拍子外れに踊っていた。あっぱれなほど、曲と踊りはずれている。地元人は周知のとおりで誰も気にする人はいなかったが、観光客には珍獣にでも見えていたのか、遠巻きに見物されていた。
「あー疲れた。ちょっと休憩」
小さな商店の駐車場に座っていた吉田と清水の所へ、此島が戻ってきた。じっとりと汗をかき、長風呂の後のように上気した顔をしていた。清水が飲みかけのお茶の紙パックを差し出して「飲むか?」と訊くと、「喉が渇いて干からびそうだったんだ」と、ごくりごくりとビールの宣伝さながらに美味そうに飲んだ。
「理、何をそんなにキョロキョロしてたんだ? 脇目を振り過ぎだろう。ただでさえずれるのに、今日は一段とそのずれに磨きがかかってるぞ」
吉田と同じことを考えていたらしい清水が訊いた。
「来てるかなーって」
三人の間に生温い沈黙が通り過ぎる。
清水が「えっ、終わり?」と、此島を仰ぎ見て言った。
「四日間踊れば、一日ぐらいはねー」
吉田と清水は顔を見合わせて、「何の話だ?」と同時に言った。そして、「俺に訊くなよ」とまた声がかぶる。暑い、暑いと言いながら団扇で風を送っていた此島の視線が、吉田と清水を交互に捉えた。弱々しい提灯明りのおこぼれの中に、此島の笑顔が浮かんでいた。
「じーちゃん。のんびりしてたけど、一日ぐらいは気付くだろ」
「ああ――――お盆だからか」
吉田が納得したように呟くと、清水が説明してくれよ、とまだ解せない声音で訊いた。
「お盆って、死者の魂を迎えて供養する日だからだろ。理のじーちゃん……春だったから。じーちゃんのお迎え兼供養で、理は踊ってるんだ」
「脇目を振ってた理由は、そこかー」
そう言って、清水は笑った。
「なんか、見えるんじゃないかと思ってさ。じーちゃん、踊るの好きだったし。絶対、参加しに来ると思うんだよな」
故人に対する労わりや尊敬の念がこもった声だったが、不思議と悲しみや気落ちめいたものは滲んでいなかった。此島は穏やかに「一日ぐらいはね」と付け足して、踊りの輪に戻っていった。
「俺たちも、踊るか」
清水が言った時には、二人とも立ち上がって踊りの輪の方に歩きだしていた。提灯で飾られた一角には、列を成して踊りにふける人たちがいた。曲が終われば肩の力が抜けるけれど、次の曲が始まれば、身体が勝手に動いてしまう。そんな“踊り”が身体に染みついた人たちだ。
そんな中に混ざった三人は、脇目を振り振り、ひたすら踊った。
四日間の『盆踊り』が終わろうとしていた。
汗をかき、下着の中が蒸れていた。綿一〇〇パーセントのTシャツは、吸い取った汗をわざわざ肌に戻すように背中に張り付いている。膝は重たくて、足の裏は引きつっている。腕や腰は、どこがどう痛いのかもわからなかったし、何百回も打った手のひらは、痛みを通り越して感覚が怪しくなっていた。
三人とも、Tシャツにコットンのハーフパンツ姿だったが、浴衣と下駄を履いて参加する人も多い。伝統を大切にする心があるからこそ、手を抜かずに踊りぬく。吉田にはそんな人たちが、ある意味、不屈の精神を持った英雄に見えていた。戦い、己に勝ち続ける、確固たる信念を胸中に秘めた戦士たち。若輩者を優しく見守る、懐が深い“踊り”の達人たち。身分差は関係なく、無礼講でみなが楽しく踊ればいい。何百年前の殿様が、民に奨励したこの祭りの原点だ。
拍子木と唄だけで締め括られる会場が、少しずつ明るくなる。真っ黒だった山際に紫色が混ざったと思ったら、曲の終わるころにはピンク色になっていた。白く新鮮な光が、じわじわと面積を増やしている。
空に跳んだ拍子木の音が、波紋のように広がって吉田の不安定な膝を叩いた。そこから体内を駆け抜けて心臓に響き、小さな破裂音とともに頭から抜けた。耳たぶにヒヤリと何かを感じて身震いをすると、一瞬にして全身に鳥肌が立つ。
「終わったな――」
頬を伝う汗を拭うこともせず、吉田は言った。乾いてカラカラになった喉から出てきた声は、聞き取りにくいほど擦れていた。口の中がねばねばする。それは此島も清水も同じだったようで、こわばった声で各々が、「終わったな」と口(くち)遊(ずさ)んだ。
「じーちゃん、一日ぐらいは来てただろうな」
此島が笑って言った。
「来てただろ。四日間とも来てたかもな」
血走った目をした清水が、しゃがみ込んで呟いた。瞬きの回数が順調に増えている。
「俺たちを見て、大笑いしてたかもな。お前のじーちゃん。……いや、基本がなっとらーんって怒ってるかもな」
ははっ、と吉田は力なく笑った。ここでしゃがみ込んだら、二度と立ち上がれないかもしれないと思い、羨望の眼差しで清水を見ていた。
「うん、じーちゃん来てたな。絶対、来てた」
此島が明けてきた空を仰いで、満足気に言った。
昼夜逆転の四日間は、心地よい達成感を与えてくれた。が、たくさんの土産も置いていった。軋む関節と、鉛が付着した足と、気を抜くと丸くなる背中と……。
「帰って寝よう!」
吉田の口からは、思いの外張りのある声が出た。それが清水を刺激したのか、「うおーっ」と獣の如く雄叫びを上げて跳び上がった。
アドレナリンが出過ぎていた。布団に潜りこみ静かに身を任せれば包み込んでくれるような眠気が来る、とは思えなかった。それでも、もう立っているのが嫌だった。
「またな、じーちゃん」
清水に聞こえていたかはわからない。吉田の眼の端にいた此島はそう言って、その時初めて寂しそうな顔をした。