新月女郎
新月女郎――転
見ると若い衆が恐ろしい顔で徳太郎を睨んでいる。
「お客さん、あれァいけねえ」
アレとはやはりあの女のことだろうか。どうにも酒を飲んだ後のようにふわふわして思考が定まらないが、女は見事に消え失せていた。手元にむなしく更の半紙が握られているばかりである。
とにかく上がってくれと、ほとんど力任せに見世の中に押し込まれ、上がり框で気付の煙草を鼻から煙が出るほど呑まされた。続いて酒を一合程飲まされ、頭から塩を振られた。燻製にされた挙句塩と酒を振られてこちとら鰹節じゃねえやと悪態を吐く間もない。徳太郎では一生かかって金を溜めても祝儀も払えないような大見世の中である。
玄関の脇にある畳部屋に通されしばらくすると、すっと襖が開いて女が顔を見せた。一瞬先ほどの女郎に見えて驚いたが、良く見るとトウが経っていて良い女ではあるが三十そこそこといったところだ。この家の女将で年は若いが店は長いらしい。
「あなた、大変でしたね」
哀れむような、一方でどこか蔑むような目で徳太郎を一瞥すると、差し向かいに座って鉄瓶から白湯を淹れながらそう言う。
「あれはなんだィ、狐か狸か」
その仕草を見ながら徳太郎が問うと、面倒そうな顔つきで違います、と答えた。金の無い人間にはとことん愛想が悪いらしいが、徳太郎としてもここまで巻き込まれてハイ左様ならと言うわけにも行かない。何よりここで放り出されても外は大引け過ぎだし、かといって月の無い道を家に帰るような豪胆ならこの郷には来ていないのだ。
「狐でも狸でもござんせん。この見世に出る怪でございます」
「こんな大きな見世でも怪が出るかい」
夜が寂しいから吉原に来たのに、こんな場所でも出るなぞ勘弁して欲しいものだ。普段は小見世にばかり足を運んでいるのが幸い、と強がっている場合でもない。
「さあ……何が化けますやら。新月の晩に出るので新月女郎と呼ばれ、また籬の半分しか見えないのでお半分様とも呼ばれます」
「お半分様、ねえ」
確かに格子ごとに見えたり見えなかったりするならお半分様だろうが、気味の悪い話である。
「客の話では、夜中に枕を抱いて廊下の壁に立っているとも……コウ、横に」
徳太郎は想像する。薄汚れた白壁が行灯に浮かび上がって、左手には女郎部屋の障子が並び、床は磨きこまれて顔が映るようだ。新月の夜にその廊下を通る客は、何かが壁から生えたようになっているのを見るだろう。薄明かりによくよく目を凝らすと、世にも美しい女が枕を抱いてじっと横に立っているのだ。それがこの見世に出る新月女郎だという。
「いずれ私らには見えませんが、魅入られると吸いつけ煙草を寄越しやす。口をつけるとつれていかれるとか」
若い衆は何も無いところへさして煙管を受け取る仕草をしたものだから、すわと思い血相を変えて止めたらしい。差し詰め命の恩人といったところだ。
「助けていただいたのはありがてェんですがね、女将。この後は……」
「今宵は泊まって行きなんし、ただしこのこと、他言は無用によしえかえ?」
ぎろり、と睨んだ顔は正味の話新月女郎と同じぐらい恐ろしかったから、徳太郎は素直に頷いた。