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まつやちかこ
まつやちかこ
novelistID. 11072
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evergreen/エバーグリーン

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 早口な確認にうなずくと同時に、ドアが開いた。「じゃ」と片手を挙げながら岡谷はホームに出て、人混みに混ざっていく。その足取りが若干逃げるように早く、もう一度振り返った表情が不可解そうに見えたのは、たぶん気のせいではない。
 ――誰かと彼女の話をする時、必要以上に敏感になっている自覚はあった。いまだ時々向けられる好奇心やからかいに構える気持ちもあるが、最近はそればかりではない。先ほどのような、巡り巡って曲解された噂を少なからず聞かされるからだ。
 自分に話を振ってきた相手に対しては当然はっきり否定と口止めをしている。だが彼女の側に関してはそうもいかない。当人は何も言わないものの、それらしい話を聞かされていることは人づてに何度か耳にしているし、そういう時の彼女は、いつにもまして表情が硬い。
 いったい誰がそんな不必要な解釈を付け加えているのか。勘違いか興味本位かなのだろうが、どちらにせよ腹立たしい。ただでさえ、彼女が気を許してくれていると感じられる瞬間は多くないのに。
 ……いや、そうなっている理由が第三者的要因だけではないことぐらいわかっている。
 彼女の態度が付き合う前よりも明らかにぎこちなく、警戒さえしている様子であるのは誰のせいでもない。自分自身のせいだ。
 自分が彼女に、勝手きわまりない感情を押し付けることをしたから。
 2ヶ月近く経った今でも、思い出すと胸と口の中に、かすかな苦さがこみ上げる。

 あの時の行動は、自分でも想定外だった。言い訳にしかならないのはわかっているが本当にそうだった。
 彼女が泣き虫、というか涙もろいのは知っているつもりでいた。一度だけ映画を一緒に観た時、クライマックスからラストにかけてはずっと、隣からしゃくりあげる声が聞こえていたから。他にも泣いている客はいたが、タイミングは彼女が一番早かったと思う。
 だからいつ泣いても動揺しないよう、心構えはしていたはずなのに、予想以上の泣きっぷりで落ち着きを保てなくなった。ともかく早く涙を止めてもらおうとタオルを用意したものの、彼女自身はもっと動揺していたらしく、いっこうに泣きやむ様子がなかった。
 彼女を見ているのはいたたまれなくて、けれど見ていることしかできないのが歯がゆくて――徐々に、落ち着かない気分が苛立ちに似た気持ちに変わった。それが自分に対してなのか彼女に対してか、もしくは両方だったのかはわからない。
 だがどれが正解であるにせよ、彼女には何の責任も落ち度もない。それなのに目の前の彼女に感情のぶつけどころを求めた。完全な八つ当たりだった。
 ……あんな、半ば力づくのような形で、するつもりはなかったのに。唇と手を離した後の彼女の表情は、今でもまざまざと思い出せる。
 口を半開きにしたまま呆然と自分を見つめる、彼女の視線が痛かった。謝るよりも先に用意していた誕生日プレゼントを差し出したりして、間抜けというよりも非常識だと行動を起こしてから思ったが、引っ込めることもできなくて。
 彼女がなんと言おうとこの件はあの喫茶店で済ませておくべきだった、と後悔した。初めてプレゼントを渡す場は普段と違う雰囲気に、少しだけでも特別なシチュエーションにしたくて――だけど高級なレストランなどは自分も彼女もきっと落ち着かないと思い、知り合いやサークルの先輩に聞いて回って探した店だった。
 だが彼女はもちろんそんな事情は知らないし、知っていたとしても言い訳ができるとは思わなかった。そもそも言い訳のしようなんてない。……結局、本当に何も言えずに、実際には何分かわからない長い時間が過ぎた後。
 はっ、と我に返ったふうの彼女は受け取ってくれたけど、直後の困惑した表情、おどおどとこちらの様子をうかがう目はとうてい喜んでいるようには見えなくて、しかたないと思いながらも気分の重さは避けがたかった。
 その時ですでに夜8時近く、外はとっくに暗かったから、駅まで歩いて彼女を送った。彼女が一人暮らしするアパートまで行って見届けたい気持ちはあったが、話しかけられない雰囲気がさらに続くのは正直しんどかった。おそらく彼女も、ついてきてほしくはなかっただろう。
 改札口で別れる寸前、やっと謝りの言葉を口に出した。
 『気をつけて。……その、ごめん、今日』
 変なことは考えてないと言ったのに。その続きをさえぎるかのように、彼女は首を振った。無言で、けれどはっきりと横に。
 一瞬固まったこちらを見上げた目は不安げで、同時に何か言いたそうで。
 そう思ったから彼女の言葉を待った。だが次の電車到着のアナウンスが聞こえるまで、引き結ばれた口からは一言も発されなかった。電車が来るギリギリのタイミングで、じゃあ、とつぶやくように小さく言っただけで。
 さっと背を向けた彼女を呼び止める度胸も出せずに、振り返らない背中を見送るしかなかった。

 以来、彼女との間の空気はひどくぎこちない。ただの知り合いでいた頃より、それどころか付き合い始めた頃よりも、さらに。
 彼女が警戒してよそよそしくなるのは当然だし、怖がらせたりおびえさせたくはないから自分も、彼女の扱いには慎重にならざるを得ない。不用意に近づかず、手をつなぐことも肩に触れることもせずに――もう2ヶ月近く、そうやって接している。
 あまりの他人行儀ぶりを訝しむ人間がいるもまた当然で、もう別れてしまったのか、とわざわざ聞いてくる連中もいる。冗談ではない。彼女がそう言ったならともかく、自分から別れを切り出すはずがない。
 どういうわけか、身近で自分や彼女のことを知っている連中ほど「別れるなら名木沢から言う」ものだと思っているらしい。ふざけたことを言うな、と最初に聞かされた時は常になく強い口調で言い返して、相手を驚かせた。
 にもかかわらず、同じことを聞いてくる奴がちらほらとでも後を絶たないのはなぜなのか。そのたび、彼女も同じように言われているのか、嫌な思いをさせられていないかと、たまらなく不安になる。
 ……そのくせ、自業自得の後ろめたさと変な臆病さで、きちんと聞くことができない。彼女が浮かない顔をしている理由を、正面から尋ねることを避けている。なんかあった、と遠回しに探りを入れるだけで。そんなふうに聞いたら、決まって「なんでもない」と返されるのがわかっていながら。
 彼女の、無理な作り笑いを見るたびに胸が痛むくせに、具体的な理由を聞くのが怖い。――もし、もう付き合いたくない、付き合うのに疲れたと言われたら辛いから。
 そう考えるのは、そういうふうに思われているかもしれないという自覚があるからだ。実際、彼女の立場になってみれば、周囲の好奇心の対象にされる上に当の相手が気弱さや曖昧さのにじむ態度では、気分の良いはずがない。
 ……そもそも、自分は彼女にちゃんと気持ちを伝えていただろうか?
 あの時、交際を申し込みはしたけど好きだとは言わなかった――かもしれない。彼女に気づく余裕はなかっただろうと思うが、正直言ってものすごく緊張していた。かつ、どう考えても衝動的、成りゆきで口にした事実には違いなかったから、もし断られたら冗談に紛らわせてしまおうという姑息な考えも頭の片隅にあった。