evergreen/エバーグリーン
そこでようやく、一時停止していた感覚と思考が戻ってきた。同時に、寒気に似たものが背中をはい上がる。
「ん、…………っ」
息が苦しくて頭を動かそうとしても、しっかり固定されてしまっていてどうにもならない。初めての、舌が触れ合い絡められる感覚に喉までがふさがれる心地がして、息苦しさが増す。ほんの少し体をよじっただけでさらに力をこめて引き寄せられて、わずかな自由すらきかなくなる。
もうどうしようもなかった。彼の腕の中で動くこともままならず、キスはまだ終わる気配を見せない。彼にこんな一面があるなんて想像もしなかった。手をつなぐ時にさえ遠慮がちに、いいかな、と許可を求めてくるような彼に。
――でもどうして? まだそんなふうに思う私は、後から考えれば救いようがないほどバカに違いなかった。けれどその時は、可能性を頭に浮かべることも避けていたのだ。逆の可能性ばかりを考えて、そのくせそれが現実になる時が来るのは、想像したくなくて。
離れたくなかった。彼がどんな気持ちでいるのだとしても。
頭を支えている手が少しずつ下にすべっていき、うなじに直接触れた。指先が素肌を撫でた瞬間、背筋を走る震えが一気に激しくなる。
「――う、んん、うぅっ」
もう一瞬も我慢できなくて必死にもがく。息苦しさも限界だった。
思いきり頭を振った拍子に顔が、唇が離れる。直後に体も解放された。
拘束が解けて息苦しさが一度になくなった反動で、逆に、吸い込んだ空気を急には喉が受け入れられなかった。反射的に押し返された空気が咳の発作を呼んで、しばらくは止まらなかった。
ようやく咳が治まりかけた頃に、背中をさする手の存在に気づいた。繰り返し何度も上下する、優しいけれど遠慮がちな動き。
誰の手かは考えるまでもない。口を押さえていた手をはずしながら振り向くと、ひどく不安そうな彼の表情が見えた。その目が、私と視線が合うと同時に、一気に後悔の色に染まる。理由がすぐにわかって慌ててまた顔をそむけるけど、目にたまった涙は勝手に流れ落ちて、後からもまた湧いてくる。この状況で止まらない涙は咳の何倍もたちが悪い。
ごめん、と小さな声が背中にかけられた。手が触れてくることはなかった。
泣きたいわけじゃないのに止まらない涙が憎らしい。びっくりしたし、少しは怖かったけど、泣くほど嫌だったわけではないのに。
……嫌だったのは、怖かったのはむしろ、自分自身。離してほしくなかったと今この時でさえ思っている、私自身の気持ちだ。
泣き止む様子のない私の背中に、何度も同じ言葉がかけられる。その声がだんだん焦りを帯びていくのがわかったけど、私は何ひとつ言うことも反応することもできずにいた。どうしたらいいかわからない。自分の気持ちが、行き着くべき位置にたどり着いていることを、認めざるを得なかったから。
もう、ごまかせない。
――――私は、彼が好きなんだ。どうしようもないほどに。
「え、それってマジ?」
「らしいぞ、直接は見てないけど。でも見た奴が間違いないって」
「へえーあいつが……んなふうには見えなかったっつーか、んな柄じゃなかったよな?」
まあな、と応じながら思い浮かべるのは、高校の部活で同期だった一人。他県の大学に進学してからは音信不通なのだがつい最近、そいつが大学を辞めて俳優を目指していると別の知り合いから聞いた。
「中高バリバリの体育会系だったくせにな。まあそれは人のこと言えねーけど、俳優ってカオじゃないだろあいつ」
部内で一番大柄でごつかった当人を思い出し、ちょっと笑ってから、
「まあでも、見た奴が言うにはそうおかしくもなかったってさ。でかいから目立つけど、役に合ってる気はしたって」
個人的には想像がつきにくかったが聞いた通りに話すと、相手もしきりに首をひねっている様子で「……ふーん?」と言ったきり直接的な感想は述べなかった。そして部活の話が一段落つき短い空白ができたタイミングで「ところで」と挟み込まれ、反射的に身構える。続く内容は予測していたものの、
「なあ、今日のあれって本当に槇原?」
実際にそう尋ねられて、少なからずうんざりした気分になるのは否めない。なにせこれで3回目、いや4回目の質問であるから。
「だから、そうだって。なんでだよ」
しつこいな、という言葉は飲み込んで聞き返すと、相手は「いや、……」と口ごもる。この反応もこれで4回目だった。
今日の祭りで会った高校の同級生二人、そのうちのまず一人に約束通り、帰ってから電話をかけた。開口一番に先ほどの質問と反応で、話題が変わってからも一段落するとまた同じ質問を浴びせられる。この30分、その繰り返しなのであった。
そして口ごもった後、必ず言葉に迷うように沈黙する。そのだんまり具合を居心地悪く感じたこちらが、別の話題を振って話をそらすのが過去3回のパターンだった。
4回目もあるのだろうと思って口を開きかけた矢先、予想外に向こうが言葉を続けた。ただし内容はかなり心外なものだったが。
「……なんつーかさあ、それこそタイプ違くね?」
「何の」
えーとその、とまた空白が生まれたのは、反射的に込めたかすかな苛立ちを感じ取られたのかもしれない
「だって、槇原ってあの槇原だろ。男と付き合いそうに見えねーし、だいたい倉田とかと真逆じゃん。おまえ昔けっこう遊んでたから派手な女子の方が好きだと思ってたしさ」
「いつの話だよ。――そもそも、別に遊んでたわけじゃないし」
電話の相手は中学からの知り合いだ。確かに当時、一時期ではあるが、告白されるたびにその女子と付き合っていたという頃があった。だが同じことの繰り返しにはすぐに飽きてしまい、半年も続かなかったかと思う。誰に対しても、好奇心以上の興味は持てなかったのだ。
以降は逆に、女子と付き合うこと自体が億劫になったから、元カノの倉田都と付き合うまではだいぶ間が空く。そういえば都との付き合いも申し込みは向こうからだったし、今となっては、都に対してもさほど本気にはなれずじまいだったと言わざるを得ない。
……とあらためて考えると、ある意味では遊んでいたと言われてもしかたないかもしれなかった。相手の好意を、そんなつもりはなくとも結果的には利用していたのだから。
「ともかく、誰と付き合ったって別にいいだろ。迷惑かけてるわけじゃなし」
ややむきになった口調に反応してか、「そりゃそうだけど」と応じる相手の声に、若干だが面白がっているような気配が混ざった。
「でもさあ、……んー」
「なんだよ今度は」
「いや、あれが槇原だってのがさあ、なんかピンと来なくて。その、わりかし可愛かったじゃん。あんなんだった?」
思わず口の端が上がる。今日の彼女を可愛いと思ったのが自分だけではないことに、満足と優越感を同時に感じて。だがその思いを表に出すことは控え、努めて冷静に、何でもないような調子で答える。
「そんな変わってるか? 前と同じだと思うけど」
「えーそうだっけなあ……で、どんぐらい付き合ってるわけ。10ヶ月? なら、もう最後までやってんの」
携帯を持つ手が固まった。頭が一瞬にして冷える。
「――――してない」
作品名:evergreen/エバーグリーン 作家名:まつやちかこ