evergreen/エバーグリーン
彼女が手を上げてから気づいたが、よく見れば腕時計もいつもとは違う。深い赤の革製バンドの、学生が着けるにはややフォーマル度の高い時計は、誕生日に少し奮発して買った。しばらく前に、普段使いの時計がだいぶ痛んできたと言っていたからそれでかもしれないが、予想以上に嬉しく感じる。渡したのがあの一件の時だったから、受け取ってはくれたけどその場で開けてはもらえず、その後も着けているのを見たことはなかった。『あんないい時計じゃなくてよかったのに、だってなくしたら怖いよ』という、彼女らしいけれど遠慮深すぎる理由で。
控えめで飾らない彼女の性質は好ましいものだが、飾らなさすぎるのもどうかと思う。顔立ちは整っているのに地味に見えてしまうのはたぶんその点が要因で、だから装えばもっと可愛くなるはずなのに、と常々思っていた。そしてその認識は間違っていなかった。
身を飾る物をひとつふたつ着けただけで、普段とはまるで違う。可愛いだけではなく輝いて見えるのは、ひょっとしたら、今日のために気合いを入れてみたという気持ちが彼女の中にあるのかもしれない。
うっすらと頬を染め、視線を落とす彼女は何も言わない。その恥ずかしそうな様子が、自分の推測を裏付けているように思えて、胸の内が熱くなってくる。
たとえその考えがうぬぼれかもしれなくても、彼女が今日、自分の贈った物を使う選択をしたのは事実だ。その事実だけでこんなにも嬉しくて、彼女がいとおしく思えてならない。
想いにつき動かされるままに腕を上げ、手を伸ばす。彼女の髪をそっと撫で、試合直後だということも忘れて小さな頭を引き寄せかける。
もう少しで自分の胸に彼女の頭が接するというところで、彼女がはっと息をのんだ。慌てふためいた様子で距離を空け、周囲を見回し深くうつむく。
最近何度か家に呼んでいるとはいえ、彼女とは普段、直接的な触れ合いはほとんどないと言っていい。誕生日の一件から数ヶ月、手をつなぐことは時々あっても人前では彼女が遠慮するし、自分もまだ積極的には触れられない。二人きりでいても似たようなもので、ほんの短い間、ゆるく抱きしめることができたのが2回か3回。キスはあの時以降、まだ一度もなかった。だから彼女がうろたえるのはわかる、けど。
「……誰も見てないよ」
もう少し彼女に触れていたくて、念のため周囲を確認しつつ、2歩前に出て距離を縮める。すると彼女は驚いたように見開いた目でこちらを見上げ、同じだけ後ずさった。そして再びうつむき、消え入りそうな声で何か言ったが、全く聞き取れなかった。
「ごめん、もう一回言って」
「…………見てるよ」
「え?」
そこでもう一度見回すと、通路の6・7メートル先、カーブしていて陰になっているあたりに確かに気配を感じた。目を凝らしていると、ほどなくざわつきが聞こえ始める。嫌な予感がして近づいてみると、サークルの連中が潜んでこちらの様子をうかがっていた。……この人数だと、今日来ているメンバーの大半なのではないだろうか。
「あっ悪い、邪魔しちまった? けど」
「すごい顔して飛び出してくからさぁ、気になっちゃって。ですよね」
「そうそう、血相変わってたもんね名木沢」
呆気に取られた自分が何か言えるようになるより早く、彼らは口々に言い訳を始める。全員、若干ばつが悪そうではあるものの、好奇心の方が明らかに勝っている表情をしていた。
「……ちょっ、あの、何――あっ」
反射的に感じた驚きと憤りが去ると、無断で飛び出した気まずさと見られていた恥ずかしさが襲ってきて、さすがにどう言い返せばいいのかわからない。パニックを起こしている頭が、そんな状態でもどうにか彼女のことを思い出し、慌てて引き返す。
思った通り彼女は、身の置き所のない様子で固まっていた。正面に立つと表情が見えないぐらいに顔を伏せて縮こまっているから、先ほどの何倍も混乱が強まり、次第に申し訳ない感情でいっぱいになってくる。
自分がからかわれるのは別にかまわない。だが結果的に彼女を巻き込んでしまった、自分の軽率さが猛烈に悔やまれる。
「……あの、ごめん槇原。こんな――」
「なーちゃんどこ行ったか知ってる?」
「え、ああ、外に行くって」
直後、彼女が緊張を解いて動いた。自分と三たび距離を取り、うつむいたまま先ほどと同じ早口で、
「ごめん今日は帰る。あの人たちには謝っておいて」
言うが早いか、背を向けてすごい勢いで走り去った。たぶん正面入口へ向かって。
その場の誰もが――自分も含めて、ただぽかんと彼女を見送った。しばらくは他に何も考えられなかった。
◇
風に乗って聞こえてくる祭り囃子、人いきれと屋台で作られる食べ物の匂い。
会場までまだ距離のあるこの場所でも、祭りの気配は夜風と行き交う人々に運ばれてきて、自然と心をざわつかせる。
それとも単純に、待ち合わせ場所に少し早く来すぎて、彼女を待ち遠しく思う時間が長引いているからだろうか。……今現在、自分でもちょっとみっともないと感じるほど、彼女が来る瞬間を待ち望んでいる。
大学最初の夏休み、ほとんどの期間はサークルの練習が週3・4回あるが、お盆休みとして1週間は休日となっている。当然ながらその期間を利用して帰省する部員が多く、自分も例外ではない。とはいえバイトの都合もあるので、帰ってきたのは今朝のことで、明後日にはアパートに戻る。
偶然にというか、今日明日の2日間は地元の神社の祭り当日だった。正確に言えば中学卒業まで実家があった町、そして彼女の実家が今もある町で。
彼女は休みに入った直後から実家に帰っている。こちらの町の進学塾で、夏期講習の講師のバイトをしているらしい。わざわざ実家から通える塾を選んだのは、早く帰らないと妹が寂しがるから、と若干の苦笑い込みで話していた。
彼女の妹が、年の離れた姉を母親以上に慕っているのは時折聞く話からも明らかで、彼女自身も、困った顔はしつつも妹を非常に可愛がっていることを知っている。高校3年の冬、彼女と偶然デートが叶った時に、UFOキャッチャーのぬいぐるみを必死になって取ろうとしていた。妹が好きなアニメのキャラだからと言って。
それはともかく、自分の帰省日と祭りの日にちが重なるのは親との電話でたまたま聞いて、絶対に彼女と出かけようと思った。その電話の後すぐに連絡し、一緒に行かないかと言ったら、彼女は当初ひどく渋る様子を見せた。
『……お祭り?』
『そう。あ、塾講のバイトある?』
『……ううん、お盆は塾休みだけど、……』
『――もしかして嫌いだっけ、祭りとか』
『そうじゃないけど…………』
ここに至ってようやく、彼女は自分と行くのが嫌なのだろうか、と考えた。同時に胸の底で、もはやなじんでしまった不安が頭をもたげる。
彼女と付き合って10ヶ月が過ぎたが、正直言って、付き合い始めの頃よりも最近の方が不安だった。普段は押さえつけているけど、以前よりそれは確実に大きい。
――時折彼女が見せる、辛そうな表情のせいだ。
作品名:evergreen/エバーグリーン 作家名:まつやちかこ