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夏色の麦わら帽子 -ノンフェイス予告-

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 ロンが心配性なんだわ……この街の外のことを、あまりよく分かってない。だから、あんなふうに考えてしまうんだわ。
 不意に麦わらを打つ雨脚が激しくなった。
 突然のことに船は停滞し、男たちが簡易テントの下へと移動する。ケイトも吹き込む雨から逃げるようにして奥へと引っ込んだ。同時に空が光り、遠くで雷の音が響く。
 その瞬間、どん、と脇に鈍い衝撃が走り、たまらずたたらを踏む。手の中から缶が強く引っ張られ、抵抗する間もなく奪われた。顔を上げると汚い格好をした若い女――そう、きっとケイトとさほど年の変わらない女がこちらに背を向けて駆け出した。
 長く黄色い髪が、薄汚れてかすんで見える。振り返った彼女の前髪は何年も切られていないのだろう、無造作に長く、合間から覗く目はどこか得々とした光を宿してケイトを睨んだ。痩せた背中には赤子が、汚い紐で括りつけられている。
 一瞬声を失い、しかし、見逃すわけにもいかない。
「待って!」
 立ち上がろうとするが、足はスカートを踏み手は泥をかくばかり。女は身を翻して走り去る。
 やっとのことでテントを出て土手へと上がるものの、川上へ消えたその背を追う気力など、ケイトのどこにも残されていなかった。きっと丘向こうのスラムへと行ってしまったのだ。
 なんてことだろう。また、こんなことになるなんて。
 ロンになんと言えば……。
 悔しさと不甲斐なさは、怒りを伴って腹の底を熱くした。残されたのはサンドイッチが二切れのみ。こちらなら、いくらでもあげられたのに。
「もうっ……」
 それを地面へと投げつけようとして、けれども出来ずに腕を垂らす。両手で顔を覆って、その場にうずくまった。
「もし、大丈夫ですか」
 頭上から、どこかで聞いたような男の声が降ってくる。泣き顔を親しくない男に見られることを嫌って、ケイトは聞こえないふりをした。
「それ、いらないのならくれませんか。どうにも腹がすいてしまって」
 サンドイッチのことを言っているのだ。
 恥ずかしい。きっと、投げようとしたのを見られていた。
 ケイトは麦わら帽子のツバで顔をかくしながら、どうぞとそれを差し出した。すると男は奪うようにして取り上げ、たった二口で平らげ、むせ、近くにできた水たまりから水を掬って浴びるように飲み始める。
 あまりの豪快さに呆気に取られ、涙のことなど忘れてその姿に見とれていると、男は振り返り、口元を拭った。
「あんなふうに、金品を持ち歩いたらだめですよ」差し出された手には、ケイトの缶があった。「どうぞ受け取って。あなたのものだ」
 そこでやっと、ケイトはこの男のことを思い出した。いつだったか、河川敷で倒れていた男だ。子どもたちに身ぐるみをはがされていた。
「差し上げます」言ってから、自分で驚いた。
 でもこの男になら、あげてもかまわない。どうしてだかそう思った。どうしてだろう。浮浪者に奪われるのは悪くて、自分を助けてくれた者には良いのか。それこそ偽善ではないか。なんて不公平なのだろう。
「そういうわけにはいかない」
「じゃ、サンドイッチを買って」
 偽善だとしても、その缶を手にする勇気がなかった。手にすればまた、使い道に思い悩むだろう。ロンを心配させ、苦しめる。だったら、無くなってしまったようが良いのではないか。
「もうおなかいっぱいです」
「私には、それを上手く使えないわ。誰も救えない……」
 支離滅裂なことを言っていると、ケイトは分かった。会話が成り立たない。
 何かを考える余裕がなかった。
「金は、誰かを救うために使うもんじゃない。単なる手段ですよ、奥さん」
 再び雷が光り、尾を引いた音が辺りを支配する。
 音が収まってから、ケイトは口を開いた。
「手段でも……」言葉が上手く出てこない。「手段でも同じ。私はそれを、上手く使うことが出来ないの」
 ケイトは男の手の中にある缶を見つめ、うつむくと、きびすを返す。その瞬間、ぬかるんだ地面に足を取られ、身体がふっと軽くなった――と同時にぐっと腕を捕まれる。
 腕に食い込んだ指の痛みよりも、自分の無神経さに驚いた。
 耳元で声がする。
「危ない人だ、本当に妊婦か?」
「あ、ありがとう……」
 恥ずかしさに、まともに男の顔が見られない。
 きちんと足に力を込めて立ち上がる。そして無意識のうちに、お腹に手を添えていた。妊婦。そう、自分がしっかりしなければ、無力なこの子はいなくなってしまうかもしれない。あの女の背中に赤子を見て、その予感を初めて抱いたような気がした。
「これはいらない」
 男はそんなケイトにかまわず、缶をその手に握らせた。
 そして、
「代わりにこれをください」
 ケイトの頭から麦わら帽子を取り上げた。
 瞬間、
 胸が高鳴る。
 頭に直接雨が降り注ぎ、それ以上に視界を広く明るくした。雨は降っているのに空は晴れていた。そんなことにも気付かず、ツバで薄暗くなった世界を歩いていたのだ。
 これが、この街の、夏の太陽なの?
 青々とした空が、たまらなく壮大なもののように思えた。
 夏の色だ。
 王都の夏とは、まったく違う……。
 そして心の底から晴れやかになる、焦がれていた青だった。
 海ではない、空だったのだ。
 思わず手を伸ばす。
 ノンフェイスが翔けた空を焦がれていたのだ。
 男が水を払うように帽子を振ると、引くように雨は止んだ。
「どう? サマになっているでしょう」帽子をかぶって、笑みを作った。
 ケイトは微笑んで頷く。
 記憶の中の風景と眼前に広がる景色が、初めて合致したかのように感じられた。
 ロンの言い分はもっともだ。ケイトの中で、浮浪者とこれから生まれてくる我が子の問題は全く混ざり合うことのないものだった。それはケイトが子どもの頃、浮浪者たちと対峙したことがなかったからかもしれない。思えば親が守ってくれていたのだ。
 幸福なのは、自分だった。
 最初からこの街は、ありのままの姿をしていたと言うのに、勝手に視界を狭くしていた。一体、何を分かったつもりになっていたのだろう。それこそが最大の傲慢で、偽善ではないか。
 何も変わってなどいなかったのだ。
 ただケイトが自分で、その光を遮っていただけなのだから。
 いつも当たり前のように、望む空はそこにあったのに。
「元気な子を産んで」
 そう言って足早に立ち去ろうとする男の背中に、ケイトは慌てて礼を述べた。すると男は振り返らずに、帽子をひょいと持ち上げた。
「ケイト!」
 男の向こうから、ロンが息を切らしてこちらへ走ってくる。手には傘を持っていた。心配になって、探しに来てくれたのだろう。
 ケイトはその胸に飛び込んだ。