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夏色の麦わら帽子 -ノンフェイス予告-

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4.


 夏が終わろうとしている。
 あれから半月、ロンは変わりない様子でケイトの身体を気遣い、接してくれている。ケイトも変わりなく日々を過ごした。あの日のことは、互いに触れずにいる。わだかまりとして残ってはいるけれど、話し合ってどうにかなるとも思えなかった。これは価値観の問題だ、それ以上でも、それ以下でもない。互いへの愛も変わらない。
 ただ、あの通りを歩くといつも考えてしまうのだった。
 丘へ吹き付ける風の温度が変わったのを肌に感じながら、ケイトは海沿いを歩いている。得意客のマイヤに貰ったカートは、タイヤを交換すれば難なく動き、ケイトの買い物を助けた。大きな段差のある道は避けなければならなかったが、馬車などが通る大通りを選べば済む話だ。
 空気は少し湿り気を帯びている。今夜は雨になるかもしれない。
 カートを押しているときは、あの通りへ行くことは叶わなかった。舗装されていない道は、タイヤを歪ませ、余分な力が必要と予想される。その間に荷物を取られては大変だ。ケイトがどれだけ愛情を持って接していても、彼らは平気でそういうことをする。これは事実だ。
 もはや違う目を持っている。違う世界を見て生きている。彼らにとっての救いは、こんなちっぽけな施しではない。
 ノンフェイス――。
 彼がいれば、彼のその存在こそが、彼らの救いとなるだろう。それはケイトにとって、何故か絶対的な確信として胸の奥に潜んでいるのだった。あの黒い頭巾をかぶった男は、今頃どこで何をしていると言うのだろう。違う街へ行ってしまったのだろうか、もっと貧しい土地へ。そこで施しをしているのだろうか……。
 ディナーへ向けた準備をする食堂へ戻ると、ロンが扉の前でモップを片手に、ちょうど入ろうというところだった。
「ロン!」
 その背中に声をかけると、彼は振り返って、少しくたびれた笑みを作る。
「どうしたの? 表に出るなんて、珍しい」ロンは大抵、裏口を利用する。
「子どもたちが……」
「え?」
「いや、うん」
 ロンはケイトを中へと促し、扉を締めてモップを片付けた。床には水を流した跡があり、湿った色をしている。
「最近涼しくなったでしょう。来週はもっと冷え込むと思うから、値が上がらないうちにお肉をたくさん買って来たわ」
 いつものようにカウンターで買い物の品々を並べて報告するケイトに対し、ロンは浮かない顔をしている。何かをためらっているような、そんな表情だった。
「どうしたの、ロン?」
 そんな些細な変化に気づかないほど、ケイトは鈍感ではない。手を休め、愛する夫の前へ回り込み、その顔をのぞき込んだ。
「もしかして体調が悪い? 予約もないし、今晩はお休みする?」
 頬に触れようと伸ばした手を不意に捕まれ、口づけされる。
 ケイトはまぶしいものを見るようにその青白い表情を見守った。灰がかった茶色の短いまつげが瞬いて、ケイトではない何かを見ている。
「少し考えたんだけれどね」小さな手の中で口は動かされ、ケイトはその吐息にくすぐったさを覚えた。
「うん」
「冬の間、王都に戻らないかい?」
 捕まれていたはずの手はすとんと脇に落ちた。
「君の身体も心配だし、慣れない土地よりは向こうで産んだほうが良いんじゃないかって思ったんだ。冬の間、ここを借りたいって人もいるし」
 どうして、
 そう言葉にしたかったけれど、上手く音となってはくれなかった。乾いた咽喉に引っかかり、代わりに目から涙がこぼれ落ちた。
「旅費だって……、」うつむいて涙を拭いながら、囁くような声を絞り出すのがやっとだ。「旅費だって、ばかにならないのよ。一体どこからそんなお金が出るの?」
 ロンは無言で優しく肩を抱いてくれ、ケイトはその温度に身を預けようとしてはっとした。
 その腕を振り払い、レジ下の缶を取り出す。
「これね?」
 ロンは無言だ。
「どうして勝手に決めるの?」
「今、相談してるよ」
「行かないわ、行かない」
「少しだけ距離を置いたほうがいいと思うんだ。君は肩入れしすぎたよ」
 ロンがそう言ったとき、ケイトは何かを納得した気持ちになった。
「……最近は、何もしてないわ」
 なのに、どうしてロンの言葉が正しく思えてしまうのだろう。
 施しを続けたところで何も変わらないことは分かっていた。そう、確かに肩入れしすぎたのだ。この食堂の残飯を漁る浮浪者たちを、ケイトは知っている。通りに現れないケイトを探して店の周りをうろつく子どもたちを、ケイトは知っている。ロンが彼らに手を焼いていることも。
「迷惑をかけたわね」
「違う、ケイト」
「何が違うの? 迷惑だから、王都へ戻ろうって言うんでしょう?」
「落ち着いて。君を責めたいわけじゃないんだ。君は上手くやってくれて、感謝してる。でもね、子どもが生まれたときのことを考えて。僕はそれからのことを、大事にしたいんだよ」
 王都で生まれ、育ち、ここに移り住んでからも外のことは妻に任せ、店の仕事で手一杯のロン。彼は死体から金目のものを盗む子どもたちを見たことがない。ゴミを漁る子どもたちを見たことがない。盗みを働いて、警察に追い回される子どもたちを、見たことがないのだ。いや、見ているのだろう、しかしあの眼差しを、真正面から受け止めようなどと思ったことがないのだ。
 自分の手が届く範囲で、自分が好きなものを作って、それを認めてもらえて。
 なんて、幸福な人だろう。
 ……それが、本音なんだ……
 つぶやいたケイトの言葉に、今度はロンが苛立たしげに答えた。
 まるで悪夢だよ。君は、義賊の真似事をしたいだけじゃないか――

 ケイトは裏口から飛び出していた。
 外は雨がしとしとと降っており、しかし麦わら帽子のおかげか気にならなかった。走り続けていると、やがて川へと出る。船の往来が激しいコレート川は、朝とは違った表情を見せている。小降りの雨の中、仕事中であろう作業服の男たちが、煙草をふかしていた。そしてここでも小汚い格好をした、一目見てそれとわかる貧困層の者たちが、露店を開いている。
 何か、買おうかしら。
 お金の入った缶を持ったまま、出て来てしまった。
 ここにある金額ですべてを買う言ったら、喜んでくれるだろうか。恐縮させてしまうだろうか。いや、きっと、これを巡った喧嘩へ発展してしまうだろう。そしてケイトの周りには施しを受けようと人だかりが出来る。
 分かっている。簡単にはいかない話だ。
 一つの露店を覗き、一番高いサンドイッチを頼み、言い値から10マァム値切って買った。
 偽善、だろうか。
 私はノンフェイスになりたかったのだろうか。なれるのならとは思っていた。けれど……。
 しなびた野菜と分厚いハムが挟まったサンドイッチの包みをふた切れ分受け取るが、お腹がすているわけではない。もてあそびながら雨を避けるようにテントの側を歩く。ぼんやりと、ただ漠然と、どうしてこうなったのだろうと考えていた。産まれ、7歳まで住んだ街。一番上の兄など、16歳までここにいて、立派な商人になっている。何も問題はない。この街で子どもを育てることに、ケイトは何も不安を抱いていない。