夏色の麦わら帽子 -ノンフェイス予告-
3.
それからというもの、買い物の合間や食堂の常連客との間で交わす会話から、ケイトはノンフェイスに関する情報を少しずつ集め始めた。古い記録などは役所に保管された新聞記事を頼った。驚くことにそれはいつも小さな記事として扱われ、街の発展と照らし合わせながら見なくてはならなかった。
記憶の中では強固な存在感を伴っているのに、表舞台ではただの泥棒という扱いなのだろう。そのギャップに、ケイトはいささか悔しさを覚えた。
何枚か写真も見つけたが、どれも不鮮明で、小さく写っている。黒く肩まで隠れる頭巾、年齢も性別も分からない服装。夏も冬も、大して違いはない。お面は、どの写真も違うものだった。
一番古い記事は、五十年も昔のものになる。
「ま、長期間姿を見せないのは珍しくないよね」
パン屋の主人はそう言って、にっと白い歯を見せて笑った。
「南国に渡ってのんびりしているのかも」
ケイトは相槌を打つように少しだけ笑んだが、頭の中では疑問に思った。生きた男の身ぐるみをはぐ子どもたちがいるのだ。長期に渡って施しをし続けていた人間が、そう簡単に切り替えられるものだろうか。
「でも、いい歳ですもんね」ふとそんな考えが浮かぶ。
「歳?」
「ええ、五十年前から活躍してるって」
「ああ、ノンフェイスが不老不死って噂は知らないかい? おれもじいさんから聞いたんだけど、一度警察に捕まって処刑されてね」
「え、処刑? でも新聞にはそんなこと」
「揉み消したんじゃないの。だって汚点でしょ、どう考えたって。逃げられたんだから。はい、いつものおまけ」
ばさ、と主人はパンの耳が詰まった袋を差し出したので、ケイトは素直に受け取った。それがおしまいの合図だ。お互い、ずっと立ち話をしているわけにもいかない。ケイトは礼を述べ、閉店間際のパン屋を後にした。
こうしておまけを貰うことが、頻繁にある。この街に来て間もない上、子を宿していることが同情を誘うのかもしれない。ケイトはそれを快く受け取ったし、また、形の悪い果物や野菜、砕けた干し肉などを安価で譲ってくれと、自ら頼むこともあった。あまりにも値段が不当に高いと思われるものに遭遇したときは、たとえ予定になくとも、親譲りの交渉術で値切り、納得のいく値段で手に入れた。
ロンは何を届けても素朴ながらも美味しい料理に変身させてくれたし、日替わり定食の良いネタになると、喜んでくれているようでもあった。
商店通りの裏は、そこだけ天気が違うかのように薄暗い。汚いシャツを着た浮浪者たちが残飯をあさっている。また釣った魚や、どこかで拾ったのか盗んだのか、外国の品を売りつけている子どももいた。この通りは商店通りと繁華街とを最短で結んでおり、また古く、舗装のされていない道でもあった。そのまま丘向こうまで続いているため、浮浪者が多いのだ。
ケイトのように、近道にと使う街の人間も少なくはない。
そういった人間がやってくると、彼らは一斉にこちらを振り向き、品定めをする。立ち止まらずに駆け抜けなくては、取り囲まれ、身動きができなくなってしまう。
初めてこの道を利用したときは、そうなってしまった。腕を伸ばし、一様に手に持ったものを法外な値段で売りつけてくる子どもたち。ケイトはその迫力に圧倒され、目眩を感じ、逃げるように元来た道へと駆け戻った。そのまま建物の隙間から見える海を眼前に、夏の太陽がさんさんと光を降り注ぐその光景を前に人知れず涙を流した。色鮮やかでにぎやかな街の裏側がそんなふうになっていることなど、思いもしなかったのだ。
ショックだった。
また荷物を奪われるかもしれない。背中を押されるかもしれない。あの近道は、もう二度と利用すまいと心に決めた。
しかしその反面、子どもたちの眼差しが、物を伸ばす腕が、袖をつかむ小さな指先が、値段を叫ぶ声が、買い物中のケイトの脳裏によぎってはさいなませる。ノンフェイスのことを思い、彼の復活を毎日願った。願いながらも、不確かな存在へすがる自分が滑稽に思え、数日としないうちに、とうとうケイトは再びこの通りへと足を踏み入れてしまったのだった。
「60マァム!」
「違う、40マァムよ」
「百!」
「これは20。もっと良いものはないの?」
集まった子どもたちを、ケイトは眺め回す。
怯える必要はない、堂々としていればいい。こちらは客なのだから。
ノンフェイスのようにはなれない。ケイトの暮らしも、決して豊かだとは言えない。ただの同情で施しをするわけにはいかなかった。
「30マァム……」
女の子がおずおずと、手に持った小振りの花束を差し出した。季節の花だ。古い灯台のほうへ降りて行かなければ、咲いていない。合間に入った緑が、良いアクセントとなっている。摘んできたばかりなのだろう、茎も長く、花瓶に生けるのにちょうど良さそうだった。
ケイトは女の子の頭に手を置いて、
「いいわ、30マァムよ」
と、ポケットから裸の10マァム硬貨を4枚取り出し、花束と交換した。そしておまけで貰った品々の中から必要のなさそうな物を選んで渡す。
「みんなで分けなさい」
日に一度だけ、こういうやりとりをした。数日続くと子どもたちはこのルールを呑み込み、今では習慣となっている。
偽善だ、と最初は思った。
けれども彼らの視線から逃れる術を、ケイトは知らなかった。真正面から受け止める以外に、方法がなかったのだ。
大丈夫、店に負担はかけていない。上手くやりくりしている。
ノンフェイスがいてくれれば……。彼らと接しているとき、ケイトは常に頭の片隅であの大きな後ろ姿を思い出していた。もし自分が妊娠をしていなければ――結婚をしていなければ――もしかすると、自分があの頭巾をかぶって夜の街を駆け抜けたかもしれない。そんな予感すら抱く。
相場を読みながらやりくりし、貧困層を相手に買い物をし、それでも浮いたお金は、普段からしている貯蓄とは別に貯めていた。何に使おうかなどは決まっていないが、何かには使えるかもしれない。
街自体がさして裕福なわけではない。裕福な層が贅沢な一軒家を並べ、大きな駅や立派なホテルもある隣には、汚染された水路や舗装されてない道がある。王都と最短の貿易港を持つこの街は、雪の中でも休みなく荷物を運ばなければならないため、除雪や人件費にかかる費用は想像を絶するだろう。貧困層への寄付金だと役所に渡したところで、何に使われるか分かったものではない。
かと言って、個人的にチャリティを開催するような流れもなかった。誰もが急ぎ足で、他人のことなど構っている暇もないようだ。通りによって生活水準が分けられているようにも感じられる。暗黙の了解で、通って良い道と悪い道が、あるのだ。混じり合うこともなければ、歩み寄ることもない。
トレドルとは、こんな街だっただろうか。知らない街に来てしまったのではないだろうか。記憶の中の街はもっと、活き活きとしていたように思えるのに。
ケイトは食堂の扉を開ける手を止めた。
作品名:夏色の麦わら帽子 -ノンフェイス予告- 作家名:damo