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夏色の麦わら帽子 -ノンフェイス予告-

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2.


「これと、これを、1キロずつ」
「はい、1200マァムだよ」
 駅にほどなく近い、古い商店通りは、早朝から人であふれていた。海に近いほうの市場とは違って食糧品が中心だ。もちろん、船から降ろされたばかりの物もたくさん並んでいて、料理人と思われる人々が、ケイト同様、一般家庭では使わないであろう量を買い込んでいる。
 品は王都よりよっぽど安価だったが、家が商家だったせいだろうか、ケイトは無暗やたらに手を出すことはしなかった。客の動きを観察しながらいくつかの商店を買い比べ、じっくりと時間をかけて、夫の料理にふさわしい食材を選ぶ。この街に来てからの一ヶ月の買物で、本当に良心的な値段をつけている店がどこなのか、心得るまでになっていた。
「最近、いつも来てくれるね。これ、おまけしてあげるよ」
 そう言って主人は、ひと掬いのナッツを袋詰めにした。
「まあ、ありがとう」
「何か商売でもしてるの? こんなに買い込んじゃって」
 麦わら帽子をかぶった妊婦が毎朝商店通りで買い物をしている――それはケイトの知らぬ間に、店の主人たちの間で噂になっていた。しかもただの主婦ではない、とんでもない目利きだとも、談笑の中に含まれている。
 そんなことを夢にも思わないケイトは、ただ店の人に覚えて貰えたことを嬉しく思った。
「ええ、夫と小さな食堂を。コレート川の、橋の通りの……」
「バーナ通りかい?」
「そうです、バーナ通り12番」
「あのへんも最近は治安が良くなったからな、繁盛してるんだろう。酒はそろってる?」
「もちろん」ケイトは酒が並ぶ棚の前に佇む夫の背中を思い出し、微笑んだ。
「そうか、じゃあ、仲間を連れてきっと行こう」
「特等席を用意して、お待ちしています」
 買い物袋に食材を詰め込んで、ケイトは商店を後にした。おまけのナッツが、一番上で不安定そうにゆらゆらしている。
 必要な食材を見合った値段で過不足なく買う。とても幸せなひとときだ。両手いっぱいの荷物がこぼれないように気をつけながら、来た道を戻る。
 商店通りを抜けると、不意に海からの潮風が鼻孔をくすぐった。
 振り返ると、張り出した橋の向こうに一面の青が広がっている。それは定規を引いたような麦わらのツバの下で、きらきらと光を反射し、思わずケイトは目を細めた。この街は、どこからでも海が見える。特に夏は、潮の香りでいっぱいになる。
 しかしその青は、記憶の中のものと違っていた。もっと美しく、心の底から晴れやかになるような青を思い描いていたと言うのに、ちっともそんな青に出会えないのだった。あまりにも焦がれるあまり、この海を空想の中で美化してしまったのかもしれない。もしくは船が増え、海が汚れてしまったのかもしれない。どちらにせよ、ケイトは昔のままの姿をこのトレドルに見出すことを早くに諦めていた。懐かしがってばかりもいられない。
 それこそ気温など、覚悟していたよりとても暑い。
 駆け足で過ぎ去る短い夏は、しかし例年と比べて涼しいのだと、食堂にやって来る地元の人たちが話していた。それを聞いて、ケイトもロンも苦笑いを浮かべたものだ。王都の夏は、もっと涼しかった。
 早く慣れなくちゃ。
 額ににじむ汗をぬぐい、口の中でそうつぶやく。
 王都同様、ここも夏が長いわけではない。一年の大半は、寒い冬なのだ。王都で思い出すこの街の風景といえば、どこまでも青い風景と決まっていたのに、この季節を堪能できないのはなんだかもったいなく思えた。
 川沿いの、比較的なだらかな道を下る。
 河川敷は、朝のせいかひとけがない。昼間は海と駅とを往来する船でいっぱいだが、準備する人影もなかった。彼らの朝は、どうやら遅いらしい。
 もうすぐだな、
 ケイトは少し身構える。
 市場へ行く途中、川から這い上がったような姿勢のまま息絶えている、男の死体を見つけたのだ。黒い汚らしいマントのようなものを広げて倒れていた。周囲に人がおらず、ここは工場や倉庫が立ち並ぶばかりだから誰かを呼びに行くこともできず、道中、警察に立ち寄ったが、まだ本格的に動く時間ではないからなのか、よくあることなのか、後で行くと返されただけだった。
 気にしながら歩いていると、ほどなくしていくつかの人影が見えた。
 初め、警察かと思ったが、違う。それは一目見て明らかだ。
 どうやらまだ幼い男の子たちだと気づくのに、少しかかった。そして、彼らが死体の身ぐるみをはがしていると気づくのに、更にかかった。思わず立ち止まり、目を見張った。
 ああ――
 丘の向こうには、スラム街がある。まだこのトレドルが開拓される前から存在する、古い土地だ。親から行くことを禁じられていたこともあって、一度も足を踏み入れたことはない。けれどもスラムの人間は海のほうへ下りて来るし、そう、ノンフェイスはいつだって丘の向こうへ消えて行った。そのことを、すっかり忘れていた。
 彼らはスラムの人間なのだろう。死体は金目のものを身につけているように見えなかったが、それでも彼らは、身ぐるみをはがさずにはいられないのだ。今日を生き長らえるかも分からないのだから。
 ケイトは足元に左手の荷物を置き、中から先ほどおまけで貰ったナッツの袋を取り出した。
 すっと息を吸い込み、
「おーい!」いっぱいに吐き出す。
 あまり大きな声は出せなかったが、静かな川沿いいっぱいに響いた。彼らが振り返ったので、ナッツの袋を思い切り投げる。
 きれいな放物線を描きながら、思ったより手前に落下した。それを見ていた全員が、こちらに視線を投げた。戸惑いの色を浮かべている男の子たちの中で、ひときわ背の高い、やせ細った一人が、一歩、前に出た。日焼けした肌に、大きな青い目がぎょろぎょろとしている。警戒している目だ。
「あげる!」手を振って見せる。
 背の高い男の子はナッツの袋を拾い上げた。
 ケイトはまた両手に荷物を抱え、そんな彼らを横目に歩き出した。
 このことを話せば、ロンはなんと言うだろう。
 彼は王都で生まれ育った。裕福で清潔な環境に慣れ親しんでいる反面、旅行などで訪れる、まだ道路の舗装さえもままならないような貧しい土地にも強く憧れを抱いているようでもあった。だから、この土地を選んだのだろう。拡大をし続ける港町。けれどもロンの意識の中に、彼らの存在はあるのだろうか。確かな影と重みを伴って、生きているだろうか。
 そのとき突然、ケイトの右手が軽くなった。
 びっくりして、転げそうになる。
 振り返ると、先ほど死体の周囲にいた男の子たちがいた。一人が、ケイトの荷物抱えている。
「だめ!」
 思わず叫んだ。
 しかし彼らはこちらに目もくれず、一目散に駆け出した。追おうとすると、どんと背後を突かれ、よろめいたと同時にたまらず左手の荷物を取り落とす。中身が広がり、丸い果物が坂道を転がった。はっと顔を上げると、小さな男の子がその果物を拾い上げる。
 追いかける気にはなれなかった。彼らが走り着いたその先に、ケイトの視線のその先に、先ほどの痩せ細った背の高い男の子がこちらを睨むように見ていたのだ。とても大きな青い瞳。
 なんてこと。
 ケイトは座り込み、両手で胸を抑える。