夏色の麦わら帽子 -ノンフェイス予告-
1.
まぶたを開くと夫の後頭部が見えた。
少し灰がかった茶色の、短く刈りそろえられた髪ははね、思わず手を伸ばして触りたくなるほど美しくたくましいうなじは、朝日を受けてますます白い。朝のまどろみの中、その誘惑に抗うことなく少しの間その感触を楽しむと、ケイトはふと寝返りを打った。
外の風景を床から天井まで切り取った窓は、海を眺めながら眠れるようにとカーテンを開け放ったままだ。反して冷たい風が入って来ないようにと、ガラス戸は閉ざされている。
ケイトは半身を起こし、確かめるように耳を触る。
部屋は静かだ。潮騒の音など聞こえない。
あれは、夢の中の音だったのだ。ケイトが思い出せる夢は本当に曖昧で、とても幼かった自身が何をしていたのかも思い出せない。目の前の男が誰だったのかは、おおよその見当がついたが。
ベッドの下に脱ぎ捨てられた部屋履きに足を入れ、少し目立ち始めたお腹に手を添えて立ち上がる。ガラス戸を開け、家々の屋根を飛び越えた向こう側に広がる一面の海を眺めた。
「ただいま」
眩しくて、目を細める。手を額に当てて、影を作った。
ただいま、トレドル。ただいま、幼い私を育てた海。
この街は、彼女が15年前まで住んでいた港町だ。何しろ7歳の頃の話なので、街の細部はよくよく思い出せないが、今、眼前に広がっている海の青さと、この夏の日差しは覚えている。
背後で気配がして、けれどもケイトは振り返らずに、彼女を包み込む腕に身を任せた。お腹の前で交差された大きな手に右手を重ねる。
「おはよう、ケイト」夫のロンが彼女の額に口づけをして、お腹を優しく撫でた。「おはよう、かわいい子」
「ロン、おはよう」ケイトも、ロンの白い腕に唇を寄せた。
ロンは無言で頷く。まだ頭がぼんやりとしているのだろう、起きたばかりの彼は、昼間とは比べ物にならないほど無口だ。
彼の腕に包まれたケイトは、そのゆったりとした動きに身体を預けていたが、突然振り解いてロンと向き合った。
「ねえ、市場へ行きましょうよ。朝の市場って、凄く楽しいのよ」
ロンは幸福そうに微笑んで、無言でその提案を了承した。
支度に一時間かかり、道に迷ったこともあって、結局市場へ着くのは昼に近い頃だった。すっかり太陽は高く、黄味がかった灰色の石畳を白く照らしている。海に近い市場は舶来物が中心に置かれていて、どれもが珍しく、それでいて各安だった。ケイトは珍しい食器や雑貨に目を輝かせるロンを目で追いながら、ゆっくりと歩く。
5つ年上とはいえ、王都で生まれ育った彼は、まるで子どものようだ。そしてそんな幸せそうな彼の姿を見ていることが、ケイトにとっての幸せだった。
だから料理好きのロンが自分の食堂を持ちたいと言ったときも、店を構える街が、それまで住んでいた王都ではなく、もっと庶民的な発展途上の街が良いと言ったときも、賛成した。二人はそれぞれ末っ子で、家に縛られることは一切なかった。
ロンは、食材をそれにふさわしい料理に仕立て上げたり、旅先の料理をユーモアたっぷりに解説したり、台所をきれいに保つ才にはとても長けている男だった。しかし、なんでも美味しいと感じる味覚を持っているのか、本当に良い食材を見抜いたり、それに見合った値段で買い物をしたり、そのために交渉をしたりといったことが苦手だ。
「ケイト、これ、どうだい?」
「これは?」
「いいだろう、ケイト、これが欲しい!」
面白そうなものを見つけては、ケイトに確認する。彼は自分の欠点を自覚しているし、また、商家の娘であるケイトの目を信じていた。
ずっと親が取引しているさまを見て育ったケイトは、兄たちに負けず劣らずの目利きだ。露店で宝石の値段を当てるゲームなんて、夢中になって参加した。交渉だって得意だ。こんな女っぽくない長所を、夫のために使える。家事は苦手のため、それがとても嬉しくて、楽しかった。
しかしまさか、かつて住んでいた土地に戻ろうとは。
この街に目をつけたのは、ロンだ。ケイトは誘導していない。
けれども何か、惹かれるものは確かにあった。この港町に戻りたいと、心のどこかで思っていた。7歳まで住んだ、高い丘を抱え込んだ半島の街。15年の息苦しい王都生活の中で思い出す海はどこか開放的で、自由だ。
実際の記憶はすっかり色褪せている。印象に残っていた風景をまどろみの中へ紛れさせるのに、15年という歳月は充分だった。
疲れを感じ、ケイトは小さなオープンカフェで一休みすることにした。カフェといってもカウンターとベンチが二つあるだけの簡素なものだ。フルーツジュースを頼み、舶来物なのだろう、目新しいデザインの青いベンチに腰掛ける。大きな黒い瞳の浅黒い肌をした女の子が、ケイトのところへグラスを運んできた。
「ありがとう」
表面に水滴がついたグラスを受け取ってケイトがそう述べると、まだ幼い女の子は無言で頭を下げ、カウンターの奥へと戻って行った。にこりともしない目は、警戒している目だ。海の向こうから来たばかりなのかもしれない。
そう、ここは、王都よりも海外の人間が多い。人口が増え続けるこの街へ、もちろん国内各地からも、仕事を求めて人間が集まって来る。ケイトたちも同じだ、他の土地から、店を持つためにここへやって来たのだから。けれども裕福な土地から来たという点に置いて、彼らとは決定的に違っていた。王都より生活水準を落とす必要はあるが、この街では充分平均的な暮らしだ。もちろん王都に住まう人々全員が裕福であったわけではない。格差はあった。ただ、身近なものではなかった。
ケイトはグラスを傾けた。刺激の強い、それでいて爽やかで冷たい甘い液体が、咽喉から胃へと滑り落ちた。
15年前の記憶など、夢の中のように曖昧だ。しかし一つだけ、確かなことがあった。
この街には義賊がいる。
裕福な家から金品を盗み、貧困層に施しをする、義賊が。
「ケイト、これ、プレゼント」
突然ロンの声が聞こえて来たかと思うと、ふっと視界が暗くなった。
思わず頭に手をやる。
帽子だ。
「この帽子が好きって、話してたよね。あっちで見つけたんだ。これくらい、買ったって構わないだろう?」
つやつやとした麦わらで編まれた広いツバが、指先に心地良い。幼い頃、外国のこの帽子を毎日かぶっていたという話を、ロンは覚えてくれていたのだ。
「ありがとう、ロン。嬉しいわ」
帽子をかぶり直し、立ち上がると、グラスを店のカウンターへと運ぶ。先ほどの女の子が出てきて両手を差し出したので、ケイトはそれを渡した。
「美味しかったわ」
頭を撫でてやると、女の子は少しだけ微笑んだ。
当時はケイトも幼かったので、義賊がどういった存在だったのか、よく理解していなかった。それは王都へ移り住んでから、兄たちの会話の中で得た知識だ。
ここへの引っ越しが決まったとき、ケイトは義賊の話を、ロンにしたことがある。しかし彼は真面目に受け止めず、夢のような話だねと、ただ目を細めるだけだった。
想像できなかったのかもしれない。金品を貧しい人たちにばらまくという行為を。
作品名:夏色の麦わら帽子 -ノンフェイス予告- 作家名:damo