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あの想いが還る場所

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(5)




 年末は忘年会だの年越しパーティーだので過ごし、年始も予定は目白押し。全部、高校・大学関係の仲間との予定で埋めるつもりだったが、一月三日に岡本書道教室で書初め会が催されると知り、そちらを優先した。新しい年を清清しく迎えられたのは書道教室のおかげもあるし、朋彦さんのことも気にはなっていたから。年末年始で火曜日の教室は、二週続けて休みとなっていた。通い始めた頃は憂鬱だった手習いの時間も、すっかり日常の一部になっている。朋彦さんのやる気のない指導を受けることにも慣れた。休みが続いて彼の独特な物言いを聞けないことに、物足りなささえ感じている。いや、決して俺がマゾなのではなく。
 俺はペン習字の教室なので毛筆書きでの書初めは免れたが、その後の餅つきは若い男手と言うことで、杵方として強制参加。しかし同じく若い男手のはずの朋彦さんは、書道教室の師範の一人でありながらその場に姿を見せなかった。
「あの、朋彦さ…先生は?」
「朋彦先生? ああ、こう言う賑やかな場にはいらっしゃらないわよ」
 どんなところにも聞いた以上のことを話してくれる事情通はいる。その話の中で朋彦さんが、学生の頃に海で溺れてから、大学も中退して家に引きこもっていることを知った。溺れたことになってはいるが、別の説もあると言う口ぶりだ。ただそれも噂に過ぎず、大学を辞めてから何をするでもなく家にいることに、尾ひれがついたようだった。
 段々と母親達の井戸端会議の様相を呈し始める。俺は知らず知らずに輪の中心にされ、居心地の悪さを感じていた。それで比沙子先生の許しを得て、年始の挨拶を口実に朋彦さんを訪ねるべく母屋に回った。
 あのキス・シーンを見た同じ立ち位置まで来た時、あの日の役者がいた。でも一人だ。
 ガラス戸まで進むと、縁側のスペースを書初め台にして、朋彦さんが書の最中だった。彼が一筆書き上げるのを待って、声をかけた。
「あけましておめでとうございます」
「おめでとう。なんだ、君も来てたのか?」
 彼はガラス戸を開けた。冷気が滑り込み、書き上げたばかりの書を揺らす。彼は中に入るように言った。
「奇特なことだな?」
「上達したのはここのおかげですから」
「上達って言葉に失礼だろ?」
 そりゃ、今、あんたが書いた字に比べたら、俺の字なんて所詮は象形文字ですよ――出かけた言葉を、飲み込んだ。
「それで、挨拶に来てくれたってわけだ?」
「そろそろ子供や奥さん連中のお守りから解放されたかったってのもありますけどね」
「なんだ、挨拶は口実か」
 朋彦さんは口の端で笑った。その程度でも久々に見る笑顔だ。菊池さんが来なくなって以来の。
「菊池さん、正月はこっちに帰ってきてないんですか?」
 あまり聞かないのも不自然だから、聞いてみる。
「さあ、どうかな。転勤になるって言っていたから」
「転勤って、どこに?」
「アメリカ」
 コーヒーメーカーのポットで保温されていたコーヒーを入れてくれた。合間にその動作が入って、俺はそれ以上、菊池さんの話題を続けられなかった。
 教室以外、それも何もしない状態で向かい合うのは初めてだ。だから、話題が出てこない。年齢も離れているし、同じような趣味を持っているとは思えないし、会話は会話にならず、気がつくと毛筆を握らされていた。
「君も生徒なんだから、何か書けば?」
「う…、毛筆なんて無理」
「ペンも筆も一緒さ。要は『書く』気構え。持ち方はこう。それから、」
 朋彦さんは後ろに回って、俺の手に自分の手を添えた。硯に移動して墨を含ませ、
「書きたい字はなんだ?」
と尋ねるので、とっさに出たのは「心」だった。朋彦さんの心ばかりを思い計るから、この字しか浮かばなかったのだ。
 余分な墨を落とし先を整えられた筆は、半紙の上を滑り、「心」と書いた。字は時に書いた者の心を映すと聞いたことがある。素人の俺には読み取ることは出来ないが、人の手に添えて書いたにしては完璧とも見える美しい字に、彼の頑なさを感じたのは気のせいだろうか?
「今の感じ、わかったな?」
 彼は背後から離れ、新しい半紙に取り替えた。俺は彼がやった通り、硯の海に筆を浸した。墨がたっぷりとついて、慌てて陸で落とす。落し過ぎたかと、また墨を含ませた。加減がわからないから繰り返す。朋彦さんはさぞかし呆れているだろうとチラリと見遣ると、彼はガラス戸の外に視線を向けて固まっていた。
「あれ? 菊池さん?」
 視線の先には菊池さんが立っていた。
 動かない朋彦さんの代わりに、俺はガラス戸を開ける。菊池さんはまず俺を見て「ありがとう」の意味で笑み、縁側のすぐ傍まで来ると、朋彦さんを見た。
「…司、アメリカじゃ、」
「迎えに来た。トモ、一緒に行こう」
「その話は断ったはずだ」
「一緒に来てくれ。俺にはおまえが必要だ。おまえにも、俺が必要なはずだ」
 この場に居ていいんだろうか、俺は? でも今更、動けない。
「話はまた別の機会に聞くから」
「別の機会なんて無いだろう? おまえは逃げるじゃないか」
「中島君がいるんだぞ!」
「俺は何も後ろ暗いことはない。だから誰に聞かれたって構わない。おまえを好きな気持ちは、人に恥じるもんじゃないぞ」
「司!」
「トモは恥じてるのか?! それでまた飲み込むのか?! 身動きが取れなくなって、現実から逃げるのか?!」
 菊池さんは踏み石に足をかけて、手を伸ばした。察して朋彦さんが身をかわすより早く、彼の手はその手首を掴む。
 俺? 筆を持ったまま、その場に座っている。菊池さんの目が「そこに居ろ」と言わんばかりに見たからだ。
「司は勘違いしているだけだ」
「何度、言わせるんだ」
「おまえこそ、何度、言わせるんだ。司は同情しているだけだ」
 朋彦さんの声は感情の昂ぶりを抑えているからか、少し震えているように思う。本人は冷静であろうとして、かなり努力しているのだろうが、完全にその震えを封じるには至らない。固く握り締めた拳が、痛々しかった。
「同情じゃなければ、無用な責任感だ。勝手に司を好きになって、悩んで、馬鹿なことをしたから、同じ事をしでかさないか心配なだけなんだ。それは恋愛感情なんかじゃない。もう大丈夫だから、放っておいてくれ」
「俺の気持ちを勝手に決め付けるなよ」
 まっすぐ朋彦さんを見る菊池さん。そんな彼を見られずに目を逸らす朋彦さん。二人の間に昔、何があったのか知らない。事情通の奥さんが知った風に話していたことに、関係があることはわかる。海で溺れたことはやはり、意図的だったのだろう。そのことを負い目に感じて、朋彦さんは頑なにすべてを否定している。ただ、菊池さんの言葉には偽りは感じなかった。
「好きなのは、おまえに応えてやらなきゃって使命感からじゃなく、俺自身の気持ちだ。おまえに会いたいから、戻る度にここに来るんだ。おまえに触れたいと思うから、触れるんだ」
「司っ!!」
 ガヤガヤと声がした。表の方から、比沙子先生を先頭に年配の奥さん連中が入ってくる。俺が母屋に来て、一時間は経っていた。書初め会がお開きとなり、今度はカルチャー・センター系の教え子と年始の会でもするつもりなのだろう。
作品名:あの想いが還る場所 作家名:紙森けい