あの想いが還る場所
朋彦さんが慌てて自分を掴む手を振り払おうとするが、菊池さんはそれを許さなかった。一層に引き寄せて、朋彦さんの身体はとうとう外に出てしまう。
「あら、司君、あなた、帰っていたの?」
「おめでとうございます、おばさん。トモをもらって行きます」
菊池さんはそう言うと、朋彦さんにその辺に転がっている靴を履かせて、連れ去って行った。ちなみに靴は俺のものだ。
「なあに、あの子達? これから初詣? 朋彦ったら、上着も着ないで」
上着はきっと要らない。二人の周りには暖かな空気が満ちていた。それに行き先は初詣じゃないはずだし。
トモをもらって行く――その言葉を聞いた時の朋彦さんは、耳まで赤かった。十二も年上の、大人の男に対しての形容詞としてはどうかと思うけど、本当に可愛かった。
「よし、会心」
俺は小学校の書道の時間以来、久しぶりに毛筆で字を書いた。
「心」と言う字は不恰好で、朋彦さんの手助けで書いたそれとは比べ物にならないくらい拙い。でも、今まで書いた中で一番、美しい文字だと思った。
あの後の二人の行き先はアメリカではなく、とりあえず菊池さんの宿泊先のホテルだったらしい。引きこもり歴が十年を超えていた朋彦さんには、当然パスポートなどなかったから、すぐには発てなかったのだ。手続きその他で遅れたが、朋彦さんは菊池さんの後を追って渡米した。
そして十年以上が経ち、俺は無事に卒論を読んでもらうことが出来て大学を卒業、朋彦さんと同じ年になっている。未だに独身なのも同じだ。
あの薄暮のシーンは、今でも時々思い出す。あの時に感じた奇妙な感情もまた、そのたびに繰り返し蘇った――切なく、甘く、少しの痛みを伴い…。俺はその正体を知ることもなく、知ろうとすることもしなかった。
たった半年足らず、時間にして一日にも満たない日々が、いつまでも色褪せずに美しい一コマとして在り続ける。その思い出と共に封印されてしまったかのように、二度と朋彦さんと会うことはなかった。