あの想いが還る場所
(4)
朋彦さんの友人・菊池司さんとは、それから何度か顔を合わせた。さすがに社会人、ちゃんと年齢差通りの年上に感じられる。それに俺が後輩だと知ると懐かしがって、大学の話で盛り上がった。その中で、彼ら二人が同じ町内で生まれ育った幼馴染で、幼稚園から大学まで一緒だったと知る。今は菊池さん自身、名古屋支社勤務で実家には住んでいないのだが、月に数度、本社での仕事のために戻るのだそうだ。
「もう就活、始まってるんじゃないのか? 貿易関係に興味あるなら声をかけてくれ。骨の髄まで社員をこき使う会社だけどな」
まったく朋彦さんの幼馴染で友人だと思えないくらい、感じの良い人だ。
「こんな字の下手くそなヤツ、会社の恥だぞ」
まったくあんたは、何て嫌味なヤツなんだ。
「これから直筆なんて必要なくなるさ。パソコンで処理すればいいんだから。な?」
「ありがとうございます。またお願いするかも。でも俺、教師になろうかと思ってるんで」
「え? この字を黒板で書くつもりなのか?」
二人は声を揃えて言った。こんなところは友人同士だ。
「ひどいッスよ、二人とも。だからこうして、教室に通ってんじゃん」
俺の反論に、二人はやはり同じく声を立てて笑った。菊池さんと一緒にいる時は、朋彦さんも印象が柔らかい。よほど気安い仲なのだろう。そのおかげか彼が来ない火曜日でも、打ち解けたような気がする。一言、二言の自然な会話は続くようになった。毒舌は相変わらずだったけれど。文学に関することには舌が滑らかで、意外にも話し上手だ。聞いていて興味深かった。
この余勢を駆って『蜘蛛の糸』も冒頭脱出なるかと思ったが、そう甘くは無かった。せめて新しい年には、新しい段落で迎えたい…。
そんなある火曜日、休講続きだった講義の補習が入り、俺は時間よりずい分遅れて書道教室に向かった。補講が入るとわかった時点で休もうかとも思ったが、まだ『ある日のことでございます』から脱し得ていないことが癪で、遅れても良いかと連絡を入れてみた。
普段の不熱心な彼の様子から「休め」と言われる公算が高かった。しかし意外にも、
「来る気があるなら、来ればいい」
との答えが返ってきたので、一時間半ずらしてもらうことになった。にもかかわらず夕方最大のラッシュ時にバスが渋滞に巻き込まれ、更に半時間が予定よりズレてしまったのだ。
土蔵教室に彼の姿はなかった。灯りはついていたし、読みかけの本が伏せ置いてあったので、席を外している程度かも知れない。俺は母屋の方に足を向けた。
申し込みに来た時に通されたように、木戸をくぐった。壁伝いに回れば縁側に出る。そこが居間への上がり口となっていた。
縁側が少し見えたところで、俺の足は止まった。ガラス戸が閉められた内側に人影を二つ、見止めたからだ。一人は朋彦さん、もう一人は菊池さんだった。その二人なら声をかければ済むものなのだが、様子がいつもと違っていた。向かい合って立つ二人の表情は険しく、話し声はガラス戸に隔てられて聞こえてこないが、言い争っているようにも見えた。
――と、止めるべきなのか?
割って入るのは無理だとしても、せめて俺が着いたことを知れば意識がこちらに向くだろう。
踏み出した俺の足は、再度、止まった。
薄暮の中、菊池さんの手が朋彦さんの腕を掴んだかと思うと、次には引き寄せ唇が重なったからだ。
他人のキス・シーンなど、珍しくも無い。今時、地下鉄の中でも、街角でも、おかまいなしだから。ただ、それはすべて男女のことであって、今、目の前で展開されているのは、男同士のそれ。これはさすがに…、生まれて初めての経験だ。
一度、唇は離れた。朋彦さんは菊池さんの肩に額をあてて、それから片手で彼の胸を押し戻し、首を二、三度振った。その細い顎を菊池さんの手が掴み自分の方に向かせると、また唇が重なる――今度は長く。そして菊池さんの手は顎から外れ、肩越しから背に回り、朋彦さんの体を抱き込んだ。
異質なキス・シーンであるはずなのに、不思議と嫌悪感はなかった。薄暮の効果もあるせいか、すごくきれいだったからだ。若いヤツらの節操無いそれとは違い、目を逸らすことが出来ないくらいに。
それでも、これは見てはいけないのだ…と言う気持ちがどこかに働いて、俺はその場を出来るだけ静かに離れた。
俺が土蔵で書き取り練習を始めて十分くらい経った頃、朋彦さんが入ってきた。俺の挨拶に頷きで返しただけで、一言もない。黙って座って、伏せていた本を手にした。チラリと様子を窺い見ると、目は紙面に落とされてはいるもののページは次に進まず、上の空なのがわかった。俺の集中力が散漫になると、さりげなく嫌味の一つも飛んで来るところなのに、それもない。
彼の薄い唇を見ると、最前の場面が蘇った。あの印象的で、目が離せなかったキス・シーン。
何を話していたんだろう? とても普通の話とは思えなかった。 まだ菊池さんは、母屋にいるのだろうか? 二人は、やはりそう言う関係なのだろうか?
何度も何度も再生される。
引き寄せ、引き寄せられ、重なる唇。
抱きしめ、抱きしめられ、抱きしめ返す身体。
情景の記憶は、甘いような切ないような何とも言えない奇妙な感覚を誘い――頭の中を支配して、全ての思考を締め出してしまう。
俺は文字を書くことに集中すべくペンを握り締め、それから原稿用紙に懸命に綴った。
「まあ、いいだろう。次の文章に進むから、何か書きたいもの、あるか?」
一時間後、朋彦さんは書きあがった俺の手蹟(て)を見て、気の抜けるぐらいあっさりと言った。俺自身、まさか『ある日のことでございます』から脱出出来るとは思っていなかったので、「え?」と聞き返したくらいだ。
書きたいものなど端(はな)から無い。「続きでいい」と答えると、朋彦さんは新しい原稿用紙に『蜘蛛の糸』の続きを綴った。
「また来週に」
それを俺に差し出し、朋彦さんは本に目を戻した。いつもなら俺を置き去りにしてサッサと母屋に帰って行く彼なのに、立ち上がる様子もない。俺は先に出ても良いものかと迷ったが、話しかけることが憚られる『壁』を感じたので、黙って土蔵から出た。
その日以来、菊池さんを見かけなくなった。それと同時に、少しは私語が出るようになった火曜日も、「俺は書く人、彼は読む人」の、沈黙の一時間に戻ってしまった。
以前と違うのは、俺の時間の感じ方が短くなったと言うことだ。これは偶然と言うか、必然の産物で、朋彦さんを目の前にすると、あの薄暮の場面が蘇ってきて、それを払拭するために書くことに集中するからだった。おかげで悪筆は悪筆だが、象形文字よりは『年代』が進み、他人が読めるまでにはマシになっていた。試しにプレ・レポートを書き直して、岩倉教授に再提出してみると、
「これならば、まあ」
と一応は許容範囲には入ったらしく、俺は気持ちよく年明けを迎えられることとなった。