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あの想いが還る場所

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(3)




「どうよ、中島、書道教室の成果は?」
 二ヶ月も過ぎる頃には、俺が書道教室に通い始めたことが友人達に知れ渡っていた。時間がある時に限らず、居眠りにあてていた面白くない講義の間中を書き取りに費やしているのだから、嫌でも目につこうと言うものだ。
「二ヶ月くらいで上達してたまるか。小学校から付き合ってきた字だぞ」
 今までかつて出来たことのないペンだこが、右手の中指に出現しかけていたが、原稿用紙の中の字はどれほども変わったようには思えなかった。
 書き取り見本の『蜘蛛の糸』は三週間経ってもまだ、冒頭から進んでいない。岡本朋彦大先生のオッケイが出ないので、次に進めてもらえないのだ。手本通りになんて書けるはずもなく、従って永遠にこの冒頭を書き続けなければならない気がした。
「何で、『蜘蛛の糸』なんですか?」
 特別指導三回目の日に、俺は朋彦さん――「先生と呼ぶな」と言われたので――に尋ねた。
「別に、意味なんてないさ。今、芥川を読み返しているんだ。それに『蜘蛛の糸』なら国語で習ったろう? 知っている文章の方が、取っ掛かり易いと思っただけだ。書きたい文章があれば、変えてもいいぞ。手本くらい書いてやるから。ま、その文章がクリア出来てからだけどな」
 本から目を離すこともなく、事も無げに答える様子が憎たらしい。
「クリアの基準って何ですか? そっくりそのままな字なんて、俺、書けませんよ?」
「そんなことは期待していない」
「じゃあ、基準」
「僕が良いと言えばクリアさ」
 彼はそう言うと、人差し指で「書け」とばかりに俺の手元を指差した。
 時間中はいつもこんな調子だ。俺はひたすら書き続け、朋彦さんは文庫本を読みふける。終了時間の十分前になると彼の腕時計のアラームが鳴って、書いたものをチェックするのだが、どこが良い悪いの指摘はない。ただ「引き続き、それを書き取りすること」と彼が言って、終わりとなるだけだった。私語の一つもないから、一時間がやたらに長く感じた。
――指導する気、あんのかよ。
 片手間としか思えない朋彦さんへの意地だけが俺の手を動かし、忍耐力に繋がっていた。それでも辞めようと言う気になれないのは、しただけの努力を無駄にしたくないからだ。元を取らないと気がすまない俺の性格もある。取り澄ました彼の口から「クリア」と言わせたかったと言うのも、理由に入るだろう。
 朋彦さんの人となりは、あまりよくわからない。無職であることは確かで、日がな一日、家にいるようだった。ここの教室に申し込んだ時、俺の大学名を聞いて「息子と同じね」と先生が言った。在学中に体を壊し、結局、卒業はしなかったらしいが、自由・バンカラな校風と彼の学生姿は結びつかなかった。もう少しにこやかか、せめて黙っていれば、そこそこ見られるのに。こんな横柄な態度や物言いでは、友達だっているかどうか。
「トモ」
 と思った頃に、彼の友人が出現した。ある火曜日の夕方に土蔵教室の入り口が開いて、顔を覘かせたのだ。
「なんだ、火曜日は休みじゃなかったっけ?」
 スーツ姿のサラリーマン風。襟に社章がついている。俺と目が合うと軽く会釈をくれた。
「特別指導を頼まれて。今日、戻る日だった?」
 微妙に朋彦さんの声の調子が変わった。親しみのこもった感じに。
「ああ。悪い、邪魔だな、俺?」
「あと半時間で終わるから、上がって待っててくれ。これ」
 朋彦さんは彼に向かって鍵を放った。鍵は放物線を描いて少し手前で減速し、彼は手を伸ばして受け止めた。見ていた俺に「お邪魔さん」と声をかけ、土蔵の教室から離れて行った。
 俺が前に向き直ると、朋彦さんの珍しい表情が目に入った。彼の視線は閉められた入り口を透り越し、その先に向けられている。口元が綻んで、柔らかい笑みが浮かんでいたが、俺が見ていることに気がつくと唇は引き結ばれ、文庫本に意識を戻してしまった。
 彼でもあんな話し方やこんな表情が出来るのかと、俺の方はしばらく、朋彦さんから目を離せなかった。


作品名:あの想いが還る場所 作家名:紙森けい