あの想いが還る場所
(2)
「これ、字?」
最初の日、岡本朋彦は俺の習作を見るなり、一言、そう言った。細いあごを、ついた片肘の手のひらに乗せ、実に横柄な物言いだった。銀縁眼鏡の中に見える切れ長の目と薄い唇が酷薄そうで、その物言いと相まって第一印象は最悪。
大福餅のように福よかな比沙子先生とは正反対に痩せぎすの体格を持つ彼は、俺とは干支一回りの年齢差があったが、十二才も離れているとは思えないくらいに若く見える。
「字以外の何だって言うんですか?」
「象形文字かと思った」
「象形文字だって、文字だろ…」
ムッとした俺は、独り言の範疇に入る声で言い返してみる。悪筆なのは自覚があるにしろ、言い方に腹が立つ。聞こえたって構うものかと思ったら、案の定、聞こえたらしく、彼はくつくつと笑った。
「違いない。とりあえず、これを見て繰り返し書けよ」
練習用紙ではなく、四百字詰めの原稿用紙に何やら書き込むと、俺の前に差し出した。
『ある日のことでございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある花の蕊からは、何とも云えない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう』(※)
教本のように正しく美しい字が綴ったのは、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の冒頭だった。
「これ?」
「それ。今から帰る時間まで、繰り返す」
彼は腕時計を外して操作すると無造作に置いた。机の下から文庫本を取り出し、壁にもたれて読み始める。帰る時間までは一時間ほど。その間この文章を、ただ書き写せってことなのか?――などと聞ける雰囲気ではなかった。
俺は言われた通りに、とにかく一心不乱で書きなぐる。
一時間後、正確には五十分後に腕時計のアラームが鳴った。彼は本を閉じて、俺の書いたものに手を伸ばした。原稿用紙は結構な枚数になっていたが、数はこの際、重要ではないようで、「質より量ってとこだな」と呟くと俺を見る。
「中島君…だっけ? 手本、見たのか? 最初から最後まで象形文字のまんまだけど?」
重ねた一番上と下の用紙を並べて見せる。全然、変わり映えしないどころか、最後の方が象形度の増していることが自分でもわかった。これは途中から、数を書くだけに集中したことに他ならない。
「漢字の書き取りじゃあるまいし、数書けば良いってものじゃない」
「だって、とりあえず繰り返し書けって」
「繰り返し書けとは言ったけど、たくさん書けと言ったか? これを見て書けと言ったはずだ。何のための手本なんだよ。おまえ、大学生だろう? もうちょっと考えろ」
言われていることは理解出来たし、相手の方が正しいのはわかる。わかるが、だからってその言い方はどうなんだ? 一応、相手は先生だ。口答えはしないさ、俺だって二十を超えた大人だし。なので口は開かなかった。開いたら言い返してしまうからだ。
俺が黙ったままでいると、彼もまた黙った。しばらくの沈黙の後、再び、彼の口が開いた。
「象形文字になるのは、元々下手なのもあるけど、早く書こうとするからだ。ゆっくり書けば、下手は下手なりに読める字にはなる。心をこめて丁寧に書けば、相手に伝わる。母から正しいペンの持ち方を習ったろう? その握り込むような持ち方を直せよ。君はまず、そこからだ。誰かに読ませることを意識して、正しい持ち方で繰り返し書くこと。わかったか?」
少し言葉尻が優しくなったような気がした。彼は眼鏡のブリッジを中指で軽く押し上げると、「だから個人指導は向いてないってのに」と言って、時計を腕に戻した。
「今日はこれでおしまい。来週まで、時間ある時はそれを書くように。字は繰り返し書かなきゃ上達しないからな。正しい持ち方で、ちゃんと手本を見て、丁寧に。じゃ、お疲れ様」
そう言うと、さっさと周りを片付けて、彼は土蔵を出て行った。一人残された俺は自分の字の下手さ加減を、心底呪った。
(※) ちくま文庫『芥川龍之介全集2』(筑摩書房刊)より