なんでもない、夏
4
結局、その日は俺と由貴は練習にはほとんど参加せず、遠目に見ていた後輩からは俺と由貴がいちゃついて遊んでいたように見えたらしく、旅館に帰ってから冷やかされてしまった。断じてそんなことはなかったわけだが。
由貴は怒ったようで(何を?)部屋に入ったきり出てこない。
そして俺はまだ分厚い文庫本を読んでいる。ハードカバーなら読まなくなっていただろう。といっても俺は小説のハードカバーを読むことは滅多にない。余程好きな作家の初版を手に入れるためだけにハードカバーを購入するくらいだ。そんなに本は好きではないということかもしれない。確かに、子どもの頃より本は嫌いになっているかもしれない。
神田が部屋に入ってきた。風呂上がりだ。他の男たちは入浴中だ。
神田は今回一緒にやってきたメンバーの中では、一番親しいと言える。由貴と俺が付き合っているのを正式に知っているのも神田だけだ。
「由貴のことどう思う?」
「? 別に……」
「別にって?」
「瀬口は神経質そうやからな。あんなもんちゃう」
そうだろうか。そう言われるとなんとも言えないわけだが。
「なんや? ケンカでもしたんか?」
「まぁ、ケンカっちゅーか、どうなんやろう?」
「そういう時はな、「後戯」の時に悩みきいたるねん」
そうだろうか。でもそれなら話は聞いていると思うが。比較対象がないので聞いているのかどうか、どこまで聞いているのかはわからないが。
とりあえず、明日話をしてみよう。
さっき栞を挟んだ文庫本を再び開く。
ちっとも目に入ってこない。
やっぱり今日中に話をしてみよう。
女性陣の部屋の前。由貴を呼んでもらう。出てこないかもと思ったが、案外あっさりと出てきた。
ゆっくり話をしようと思っていたので開いている茶店を探す。多分須磨駅の方にあるだろうとそちらへ向かう。
案の定、JR須磨駅前テナントビルの鉄筋の階段を上がったところに茶店があった。
客の数は時間が時間なだけに少ない。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
ウェイターが丁寧な手付きで水とおしぼりを二組置く。
「あ、ホットコーヒーを」
「……アイスレモンティー」
――――――…。
「かしこまりました」
そういってウェイターは立ち去る。
「どないしてん。今日のお前、変やぞ」
本当は由貴はいつも変なのかもしれない。
由貴は黙っている。
沈黙が時間を長く感じさせる。
「―――あたしは総司のこと解ってるけど、総司は私のことを解ってない……」
由貴が呟くように云った。
俺には返す言葉がなかった。確かに俺には最近の由貴の考えが解らない。今となっては本当に今まで解っていたのだろうかという懐旧な疑問さえ涌いてくる。でもその原因の一つは最近の由貴の態度だ。
「あなたには何でもないことでも私には意味があることなの」
由貴には二つの顔があるのか。月明かりの下で見た由貴の顔がちらつく。
「…俺が悪いん?」
「そんなんじゃない。総司は私を解ってくれてないのよ」
ゆっくりとした口調だが捲し立てるような雰囲気が漂う。
「そんなこと……ないよ」
二日前―――いや、もういつのことか判らない―――までは自信を持って云えたセリフも今は何だか陳腐なものに感じる。
「ある」
由貴は今まで以上にはっきりとした口調で云った。
由貴は奇麗だ。化粧をしていない。口紅も挿していない。女の唇は引力だ。否応もなく男を引き込む。全てをたたきつけてしまう。
由貴は絶対すっぴんの方が奇麗なのになぜ濃く化粧をするのか。
「……じゃあ私は誰のために香水を変えたり、ダイエットしたりしてるの?」
いつもの彼女に戻った気がした。その途端俺が今まで感じていたことが一気に吹き出すような感覚が支配する。
「お前、その言い方って卑怯やで」
「卑怯?」
「お前はホンマに俺のこと解ってんのか。解ってたらそんな言葉でえへんやろ」
「それってどういうこと」
「俺は由貴がどう考えてるかはわからへんけど、由貴のホンマの部分は解ってるつもりやで。俺がなんで由貴とつきあってる思ってんねん」
俺はどうかしているんだろうか。みんな月のせいかもしれない。あの時月明かりで見た由貴の顔がちらつく。
いつのまにか置かれていたコーヒーもすでに冷めている。
「どうして」
由貴はしばしの沈黙の後、下を向きながら呟くように話す。
「お前アホか」
「……アホじゃないよ」
「由貴が好きやからに決まってるやろ」