夢路を辿りて
その手紙は紛れもなく樋川紅葉からのもので、その当時、光彦は病気や仕事の忙しさ、絵描きの夢への挫折等いろいろな事が重なり、彼が原因で家庭崩壊の危機に陥ったことがあった。そんな時に知り合ったのが樋川紅葉という女性で、今の生活の何もかもが嫌になっていた光彦は、いつしか紅葉に安らぎを求めてしまていったのだが、ある日突然、理由を知らせることもなく紅葉は姿を消してしまったのであった。光彦はそのとき家庭を捨ててまで必死に紅葉を探し廻ったのだが、そんなときに持病の心臓発作で生死を彷徨うことになり、気がついたとき側にいたのは、彼の妻であり家族だったのである。以来、彼の家庭は何ごともなかったように、また元の暮らしに戻ると、光彦は仕事を辞めて今の店を始めたのだった。
ただはじめの入院のとき、最初に駆け付けたのは誰あろう樋川紅葉で、そのとき光彦が紅葉に詠んだ句が、その手紙に書かれていたのだった。また、光彦が入院したことを家族に知らせたのも紅葉で、彼の家族がやって来た時にはもう紅葉の姿はなく、それ以来彼女を見ることもなかった。
それから数度、心臓発作と手術で生死を彷徨っていた光彦には、紅葉との間に子どもが出来ていたことなど知らず、当然そのことは、彼の家族たちも知らないことで、その子どもというのが仙石青年だったのである。
そしてその仙石青年は、フランスに発つという2日前に光彦の店にやって来た。
「先生!先生、いますか?」
「ああ、誰かと思えば仙石君か。それでいつ発つの?」
「はい。明後日にはもう日本を離れます。」
「そうか、何だか寂しくなるなぁ。」
「はい、ボクもです。これまで先生にはお世話になって、何だか父のように思えて甘えました。」
「……そ、そうか。私もキミのことを分身のように思えていたよ。」
「先生、いつまでもお元気でいてくださいね。こっちへ帰ったら一番に寄りますから。」
「ああ…、そうだね。帰って来たらいつでもおいでよ。」
「はい。」
光彦は父親とは名乗れない寂しさと、自分によく似たこの青年への愛おしさに、込み上げて来るもの必死で堪えながら話しをしていた。