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手首が飛んでしまう話。

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その結果



「いけませんっ!」
 ずだんっ、という、紙の束を一気に寸断する鈍い音と、その甲高い声は同時に上がった。
 僕にとってはとても長い、実際の時間では刹那ほどの空隙の後、ぴしゅっと、頬に生暖かな液体がかかったことで、僕は正気を取り戻したのだ。
 それと同時に、つい今し方、振り下ろした左手に感じた、えも言われる重さと手応えも蘇って来た。
 動かせない顔の代わりに眼だけでテーブルを見下ろすと、つい今しがた沈んだ夕日が液体になって滴ったように、赤黒くびっちゃりと濡れたノートの真横に、伏せられた小豆色の絣の着物と、その襟元から覗く白い項、お下げに結ばれた髪があった。
 その着物の色と髪型で、頭から突っ込んで額を打ったかのようなそこに伏せているのは、いつも僕におやつを配膳してくれるねえやだということが分かった。
 実は、恥じかしい話なのだが、それまで僕は、ねえやの首から上を注視して見たことがなく、ただ、赤い絣の胸とその胸に垂れるおさげばかりが頭に残っていたのだった。
 でも、もしかしたら、僕の世話をしていたのはいつも違うねえやだったのかも知れない。ただ、使用人の決まりか何かで、年頃と髪型が大体同じだったというだけで。
 とにかく、その着物と髪型のおかげで、テーブルに額を付けて倒れ伏しているそれが、僕のねえやであるということがすぐ分かった。
 しかし、何故ねえやが僕の教科書とノートに覆い被さるように倒れているのかしらん――咄嗟にこんな事を考える辺り、やはり僕は、皆の言うよう馬鹿だったのかも知れない。
 そろそろと更に視線を辿らせると、その着物からは、これまた白い細腕が伸びており、薄暗がりで伸びる細い腕の終点を眼で辿ると、それは濡れたノートの、ちょうど真ん中の方――書かれていた文字が何だか分からないほどべっちゃり赤く濡れた場所に、あった。
 まるで頭を打たれた蝮の腹のように白くうねって、時々、びくりびくりと震えるそれを、ゆっくりゆっくり眼で辿りながら、その時の僕の頭には妙な確信が生まれていた。
 確かめようと思えば、自分の手を持ち上げるなりしてみればいいのに、僕にはそれが出来なかった。
 そして、視線のたどり着いた終点で、その確信は、言い訳の聞かない事実となってしまったのだ。
 蛇の腹の終点には、肥後の守の柄を握った、僕の左手があった。それこそ蛇の命脈を断つかのように、ねえやの腕の一番先に。普通なら、手の平と、五本の指があるべきところに。
 そして、ひくひくと跳ねる、あるべき物を無くしたねえやの腕を、しっかりと押さえつけていたのは、僕の右手だった。
 あぁ何とっ。どうやら、その当時の僕の右手というものは、僕が見込んでた以上の怠け者である上に、僕が見込んでた以上にずる賢い性質だったらしいのだ!
 いざ自分が切られるっ、というその時に、女であるにも関わらず、果敢にも僕の懐へと飛び込み、この愚行を止めに入ったねえやを――いわば自分を救いに来たる女神を――何の躊躇も無しに引っ張り込んで押さえつけて、あろうことか、身代わりに差し出したのだ!
 何て愚かな……と、そう思った時。僕の頬を涙が伝い、ぱたぱたとねえやの腕の上に落ちた。顔に浴びた返り血の滴を帯びて真っ赤に染まった、文字通りの血の涙が。
 その時、僕の身を焼いたもの……それが後悔や自責だったか。そう問われれば、否、と答えただろう。
 幼い僕の胸に沸いたその感情は、如何ともしがたい、強い屈辱と怒りと――絶望だった。
 親から貰った大事な物だとはいえ、自分の身体に、こんな簡単に浅ましく、婦女子を身代わりにするような、汚れた性質の物がくっついているなんて、耐えられなかった。
 それと同時に、こんなとんでもない奴をぶらさげて、これからの残りの一生を、あの時の、ほんの幼児の時分から見たら、幾千光年も続くと思われる人生を、このまま送らねばいけないということに、激しい目眩をと吐き気を覚えた。
 こいつのせいで、僕が馬鹿だの愚図だのと呼ばれるのはまだいい。まだ我慢できる。
 だが、こんな右手を野放しにしとけば、いつか、その卑しい性質を開花させ、癖のように物を盗る、盗っ人の手になるに決まっている。
 もしかしたら、今こうやって、ねえやの手を切り取ったかのように、僕の意志など関係なく、意図も容易く、人の命を絶ってしまうかも知れない。
 そうなったら、両親も妹も、どんなにか悲しむだろう……僕は、どんなにひもじく寂しい生活を送らねばならないだろう……。
 それを思って顔を顰め、洟をすすりながら更なる涙を流すと同時に、次に僕は、いかにも少年らしい義憤にも駆られた。
 そうなる前に、この極悪非道な右手は、早々に切ってしまわねばならないぞ、と。
 思い返せば当時、僕の好きだった、勧善懲悪ものの時代劇や紙芝居でも、悪人は斬って捨てられるものだと相場が決まっていた。
 更に同時に、陸軍の幼年科に通っている兄が、演習中の怪我が元で浮腫を煩って右足を切断したことを、自慢げに語っていた同級生のことを思い出した。
「お医者様がネ、『悪い所は身体中に悪いものが広がる前に切らねばならない』って言ったらね、兄様はね、泣くでも責めるでもなく静かに頷いてネ『分かりました切って下さいお医者様』ってお返事なさったんだよ! 流石、兄様は肝が据わっていらっしゃる」
 そう言ってその同級生が、まるで熱病にでも掛かったかのようにしゃべくって自慢していた、尊敬する兄様の武勇伝よりも、僕の頭に残っていたのは、その兄の足を切った、お医者様のお言葉だった。
「悪い所は切らないと……悪いものが体中に……」
 涙声で何度もそう繰り返すと、不思議と涙は引いて行き、頭の中には、泣いた後特有の、頭の芯をぼうっと痺れさせる熱さと、ただ一つの使命感が渦巻いていた。
 足を付け根から一本持って行かれる事を考えたら、手首一つなんて大したことではない。現にねえやの手首は予想通り、ぽろりと落ちたではないか。
「わるいものは、わるいものは……」
 そうだ、僕がやらねばいけない。この憎たらしい右手と、永久に袂を分かつには、今この時しかないのだ。誰かに任せるなどと、甘えた事を言っている場合ではない。
「悪いものは……きらねば、なるまいっ!」
 未だ可哀想なねえやの腕に指を食い込ませてギチギチに押さえつけている右手に向けて、未だに骨を断った時の感触の残る、肥後の守を持った左手を今度こそはと目視で確認しながら、目暗滅法ふりおろした。
 がつんっ、と、骨ともテーブルの天板とも付かない物に刃先の食い込む、痺れるような手応えと、顔にかかる飛沫。そして、急に軽くなった右腕の重さを確認して、僕は崩れるように気を失った。