【完結】紅ノ姫君-アカノヒメギミ-
彼女は僕がキッチンを漁っていたことを知っていた。どうやって知ったのかわからなかったが、僕は嘘を吐くべきではなかったのだろうか。選択肢は、帰るか帰らないかのよりも、もっと以前に出ていたのだ。僕はその選択肢を見逃していたのか。
疲労がどっと襲ってきた。足が笑っている。ひどく冷や汗もかいている。狩人に狙われた小動物が、命からがら逃げおおせた気分とは、今の僕の状態に近いのかもしれない。結局、五条さんの部屋に居た、ゆったりとしたひとときは、ただの幻だったのだろうか。帰る直前の、獣の眼をした彼女こそが、本当の五条五月なのか。
五条五月は殺人姫ではない。しかし、五条五月は、人間では、ない。否、まさか、彼女はただの女子高生だ。何か、他の要因で、僕がキッチン周りを弄くっていたことを知って、それを嗜めただけに過ぎない。あの深い、ブラックホールのような眼は——僕の見間違いだ。きっとそうだ、そうに違いない。
しかし五条さんが殺人姫でないなら、僕は今非常に危険な状況にあると言える。夜八時半を過ぎた若木町。連続殺人事件の舞台、そのまっただ中に僕は居る。ふらつく足に鞭を入れてでも、今は早く若木町駅に行かなければいけない。運が悪いと、殺されかねない…。
「ぐっ…はっ…はぁ…」
呼吸は未だ荒く、疲労困憊の状況で坂を降りるのはきつい。かなり歩いたつもりが、まだマンションを抜けたばかりの位置だ。先が思いやられる。
日はとっくに落ちているのに外気は暑く、汗がにじみ出る。さっきの冷や汗と合わせて倍に気持ちが悪い。蝉もみんみんと喧しく、街灯には虫が群がっていてうっとうしい。気持ちが悪い。気分が悪い。
「くは、ははは、はは」
情けない自分の状況がなぜかおかしく感じ、気がついたら笑っていた。自嘲というやつか。女の子の部屋に居ただけだと言うのに、このへたり様。何でもない、ただ口数の少ないだけの、普通の女子高生の比喩に、ブラックホールだの、蛇だの、獣だの、笑ってしまう。過多な表現だ。自分より一回り以上も小さいクラスメイトにビビっていたなんて、誰かに聞かせたら大笑いしてくれるだろう。
「は、ははは、は、は…は…は?」
マンションの敷地と道路の境界を司る緑色のフェンスに、大きな黒い物体が貼付いているのが見えた。ああ、黒いと言うのは暗がりにあるから黒い、という意味ではない。
ああ、またか。
「くく、くくくくくくくくくくく、くく、く、あは、はははははははははははははは」
本当におかしかった。やっぱり五条さんは、殺人姫でもなんでもないのだ。自分の馬鹿な妄想を笑った。無意味な疑いを恥じた。おかしかった。笑えた。笑わないと自我が保てない気がした。笑わないと、狂ってしまう気がした。
そう思って笑っている自分は、他人から見れば、きっと狂っている様に見えるだろう。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
フェンスに貼付けられた茶髪の遺体もまた、狂人による仕業なのだろう。
作品名:【完結】紅ノ姫君-アカノヒメギミ- 作家名:疲れた