【完結】紅ノ姫君-アカノヒメギミ-
振り向いた。
しかし誰もいなかった。
一瞬、五条五月が消えたのかと思った。事実は、彼女が僕に密着していて、視界に入らなかった、それだけのことだった。しかし僕は、どうやって彼女が音もなくここまで近くに寄ることが出来たのか、何故寄る必要があるのか、そんな疑問が頭で渦を巻いていて、嘘がバレた焦りよりも五条五月に対する恐怖心の方が強くなっていた。
背の低い五条五月は僕の胸の下程しか身長がない。必然、彼女は僕の方を見上げる体制になるはずなのだが、彼女は殆ど顔を上げることはなく、眼が見える程度にしか顔を上げなかった。
前髪で隠れて余り見たことのない五条五月の両目。その両目が今はハッキリと見える。否、彼女が僕を上目遣いでハッキリと見ている。
その瞳は真っ黒だった。生気を感じ取ることの出来ない、暗黒の瞳。ブラックホールのような、全てを吸い込む、僕の命すら吸い込むのではないか、と思える程、深く、暗く、混沌とした眼。この眼は、人間のものではない。人間でなければそれはなんだ。人外か。
獣、獣が獲物を狩る時の眼。獣は弱者に対し、何の感慨も持たない。獣は、ただ目の前の食べ物を捕食するだけ。
僕はさながら、蛇に睨まれた蛙のような、両生類のような存在でしかなかった。この眼に睨まれただけで、一歩も動くことが出来ない。文字通り蛇のような眼光。僕の全神経が麻痺している。一歩どころか指一本も動かせない。その間に、五条五月は僕の体に指を這わせる。蛇のような指の動き。胸板から肩へ、そして首へ、さらに顎へ。動きは蛇のようだが、食われる時は蛇の比ではない。それこそ獅子に食われるかのように、咀嚼される。あの暗黒の瞳が、未だに僕を捕えている。
吸い込まれる————
喰われる————————
ふ、と五条五月は僕の顔から手を離し、僕から離れた。彼女は素足で土間に降りていた。あの真っ黒な眼はもう前髪に隠れて見えなくなっていた。
「ぜっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」
僕は、なぜか息があがっていた。呼吸を忘れていた、らしい。
五条五月は、僕が酸素を欲している様子を気にすることもなく、
「気をつけて帰ってね。」
とだけ言った。
死ぬかと思った。殺されるかと、喰われるかと思った。
そうじゃない、だから、彼女は殺人姫じゃない…
殺人姫でないのなら、さっきのあの眼は、一体なんなのだ。あれが常人の眼だというのか。あれは人の眼か?十七歳の女子高生の眼ではない。あれは人外の眼。弱者を喰らう獣の眼。夕飯を食べさせたのは、僕を太らせて、美味しくなった後にいただく、そんな童話じみた疑惑すら浮かんだ。
「…さ、さようなら」
それ以外、何かを言う余裕がなかった。
「そうね、また明日。」
ドアを開け、逃げるように外に出た。ぼこぼこに凹んだドアノブを掴み、閉めようとする。閉まる直前のドアの奥から、彼女が最後に一言だけ言った。
「青原くん、女の子の部屋を漁る時は、事前にそう言った方が良いよ。」
作品名:【完結】紅ノ姫君-アカノヒメギミ- 作家名:疲れた