ちょっとした出会いから
由紀夫が小学生になりサッカーをやりたいと言い出した時、河川敷の練習場まで車で送り迎えを続けた。
4年生になると、自転車で通いたいと言う。河川敷まで自転車で20分ほどかかるのでためらいもあったが、ついにおれて自転車を買ってやると、1人で出かけるようになった。
ある日、自転車でサッカーの練習に行き、帰りに塀にぶつかりそうになり、転んで足と顔に怪我を負って帰ってきた。聞けば、自転車に乗ったままゲームの攻略本を読んでいて、前をよく見ていなかったという。 思わず由紀夫のほっぺたをたたいていた。
「あほんだら!」
妻に似た大きな目がみるみる涙を湛え、それでもぐっとこらえている姿がいじらしくなり、鳩中一郎は自分の細い眼を閉じて、誰かを傷つけたわけでもなく、由紀夫自身軽い怪我ですんだのだから、と安堵した。
自転車に乗る時の交通ルールを紙に書いて由紀夫の部屋の壁に貼り、日曜日ごと由紀夫が出かける前に、一郎と由紀夫は一緒に声に出して読むようにした。
一、 自転車は車と同じ、左側通行
一、 人が歩いているそばを通る時はスピードを落とす
一、 二人乗りはしない
一、 何かを読みながら運転はしない
些細なことだが鳩中一郎にとっては幸せなひと時だった。しかし、それは続かなかった。
由紀夫は父を避けるようになったのだ。母である妻とは時々会話を交わすようだが、それも学校からの連絡ぐらいのものらしい。反抗期か。
中学生となった由紀夫との距離はますます離れ、せっかくの日曜日でも顔を合わせることがなくなった。サッカークラブの練習で朝早くから学校へ行っているか友達と遊びに出かけているか、家にいても部屋にこもって何やらテレビゲームをしているらしい。
「少しは勉強しろ」
と言うために部屋へ入って行きしばらく見つめあうが、ギョロリとした眼で睨まれているように感じると、
「少しは勉強しとるんか」
と言っただけで、そそくさと部屋を出る。
高校生になってもまともに口をきくこともなく、福井県にある工業大学に進学してしまった。
親のアドバイスには耳も貸さず、ことごとく反抗され続けた日々。家を離れてから半年、夏休みにも帰ってこなかった息子、由紀夫を思い、由紀夫が使っていた部屋に入ってみた。
勉強机がおかれた前の、壁に貼ったままの1枚の模造紙に書かれた文章を、声に出して読んだ。
一、 自転車は車と同じ、左側通行
一、 人が歩いているそばを通る時はスピードを落とす
一、 二人乗りはしない
一、 何かを読みながら運転はしない
作品名:ちょっとした出会いから 作家名:健忘真実