ちょっとした出会いから
定年後2年間嘱託として残ったが、会社を去って3年目の昨年、生活習慣病に対処するために、医者から食事の管理と運動を勧められた。
老後の楽しみはなんちゅうても、好きなもん食べて好きな酒を好きなだけ飲むこととちゃいまっか。そのためには、その分のエネルギーを消費せなあかんのや。
90センチメートルの歩幅で1秒1歩、1分歩いて10キロカロリー、1時間で600キロカロリーを消費。正確な数値とはいかん、およそやな。お金を始末してビールは発泡酒にしてるわけやけど、500ミリリットル缶1缶で225キロカロリー、おつまみをつまみながらテレビ見る、なんちゅう幸せ。
プラスチック成型工場で、絶えず効率を考え、材料を無駄なく失敗なく成型品を作り続けてこられたのは、すべて計算づくで几帳面に働いてきたからだと、麻田太郎は、自分の頭脳に自信を抱き、また誇りにもしていた。
係長となって1部門を任され、5人の女性工員と働いてきた。
材料のペレットを釜の中にほうり込むのは力がいるので麻田太郎の仕事だが、後はほっといても自動で成型品が出来上がる。コンベアーに乗って運ばれてくる製品を1つ1つ目でチェックし、良・不良を選り分けるのが女性たちの仕事だ。温度センサーが時々警告を発してくるが、その原因は分かっている。簡単に処置できる。
帳簿などの数量管理は主任の小池真理に任せているので、月末ごとの棚卸の時に、帳簿と実際の数量とがあっているかを確認するのも麻田太郎の仕事だ。
定年までそれを続け、そして勤め上げた。
しかし、女性の職場に長く居続けるためには、人望がないとできないことだ、と麻田太郎は常々思い続けてきた。
時々、帳簿と在庫品との数量が合っていない時がある。足し算・引き算の簡単な計算が間違っているのだ。担当の小池真理に黙ったまま訂正だけしておけばいいとは思うのだが、やはり間違いは指摘しておいたほうがいいのだろうと思いなおして、休憩時間に小池真理をラインの隅にある事務机に呼びつけた。
「細かいことやけど」
とことわって、どこがどういうふうに間違っているかを教えた。
寛大さを示すために、にっこりと微笑んで。
休憩室に入ってきた小池真理の沈んだ表情を見た仲間たちが、お茶を冷蔵庫から出してきて勧めた。
「どうしたん?」
との心配そうな声の問いかけに、
「ちょっと計算間違うただけやのに、麻田係長いうたら仁王さんみたいな顔して睨んできはってん。こわかったわぁ」
定年で、まだしばらく居続けることになっていたが、係長の肩書がなくなる最後の日に送別会が開かれ、花束を受け取った時に最良の笑顔をみんなに向けた。
その時初めて女性工員たちは理解した。仁王さんみたいな顔は笑顔だったのだと。
作品名:ちょっとした出会いから 作家名:健忘真実